Ao no awai no.1 


 天と地を巻き込んだ激闘は幕を閉じ、私の令呪もきれいに消えた。神は過去へ還り、人は世界を繋ぎとめ、数多の英雄は自らの役割を終えたのだ。


「目を開けよ雑種」
 それなのに、なぜ彼はここにいるのだろう。
「我のことよりも己のことを顧みぬか。いつまでも惚けている場合ではないぞ」
 聞き慣れた声に告げられ見回すも、辺りは一面の青だ。水面には波ひとつなく、音もなく、匂いもなく、空すらないのに深い青をどこまでも反射している。頭上に浮くのは雲ではない。気体とも物体ともつかぬ何らかの残りかすだ。背後を振り返ろうと足を上げ、私はようやく浸かっているものが水ですらないことに気付く。
「随分と粘ついた霊子だ。纏わりついて仕方ないな」
 王様は鬱陶しそうに眉をしかめ、金の甲冑をがちゃりと鳴らす。
「霊子……」
 呟きながら足元に手をひたすと、温度のない細かな粒子が指先にからまり、そしてまたゆるゆると解けていった。
「ここはどこなんでしょう」
「疑問を抱くのが遅い。口にするのが鈍い。あれほどの大戦を終えてなお、こうまで腑抜けていられるとはふざけた娘だ」
 王様は説明をしたくて仕方がないという顔で私を急かすと、周囲をもう一度見渡して、腕を組んだ。
「どこだと思う?」
 思わせぶりな王様の問いに、予想もつかないと首を振る。彼は愉しげに口元を歪め、したり顔をしていた。全てを看破し嘲笑う超越者の表情だ。憎たらしく思ったこともあるが、こんなときには誰よりも頼りになる。ごくりと唾を飲んで、その目を見つめ返す。
「わかりません」
「であろうな。我にもわからぬ」
「え?」
 だというのに、王様はあっさりとそう言って目を閉じた。
「ちょっと王様! あなたすべてを見た人じゃないんですか? かっこいい通り名にかけて思い出してくださいよ!」
「ええい黙れ! 戦いが終わり駄犬の世話からようやく解放されると息をついたところ、空間の歪みに飲み込まれ、気付いたらここにいたのだ! 貴様とほぼ情報量は変わらぬわ!」
「じゃあ、まったく抜け出す手立てがないということですか!?」
 王様にわからないことが私にわかるわけがない。途方に暮れ再度ぐるりと見回すも、やはり果てのない青と漂うもやが見えるだけだ。
「ふん、我を見縊るとは随分偉くなったものだな雑種。確かに判断材料は少ない。だが少ないがゆえ、導き出せる答えもそう多くはない。確証はないが、おおよその予想はつく」
 状況判断にやたらと長けた我がサーヴァントは、そう前置きをして顔をひきしめ直した。得られたデータが同じでも、彼には大量のソースがあるのだ。
「おそらく──貴様の世界は一度遡り、再編された」
「再編?」
「過去の分岐を正す行為とは、常に代償がつきまとう」
 それは以前にも、誰かから説明をされたことだ。過去という太い幹から枝分かれした今は、私が思うほど確かなものではない。繰り返された選択の果てにたどりつく、吹けば消えるほどの可能性に過ぎないのだ。それでも私は成すべきことを成す方を選んだ。そうして辿り着いた世界は、たしかにとても美しかった。最後に見えた空の色がまだ瞼の裏に残っている。
「そこから弾き出されたということは……」
「正史に、貴様の居場所はなかったようだな。皮肉なものよ」
 軽い口調でそう言って、王様は退屈そうに目を細める。そのような結末を予想しなかったわけではない。恐れもしたし、迷いもした。けれど私は一度進めた足を止めるのが下手くそなのだ。たとえ先が断崖でも、地平の果てでも、有り余る惰性をエネルギーに変えて、僅かばかりの必然性を見出そうとしてしまう。積極的事なかれ主義、とでも言えば良いのか。
「じゃあ……私の祖先は存在しないことになったんですか?」
「どこから途切れたかはわからん。貴様の母が生まれようと、父と出会い番わねば子は生まれん。よしんば子が生まれても、それが貴様とは限らんのだ」
「……」
「命とは偶発の最たるもの。そうでなくては種は栄えぬ」
 歴史の授業も生物の授業も、魔術の授業もそれなりにこなしてきた。彼の言っていることの意味は解る。理解はできるがいまいち実感が伴わず、私は霊子の溜まりをつま先でかき混ぜた。ここも見ようによっては美しい場所だ。しかしどうにも寂しすぎる。
「なら私、どうして消えてないんでしょう。こんなところに放り出されるなんて」
「ここはおそらく、再編時の莫大なエネルギーによって生み出されたバグスポットのようなものであろうな。虚数空間の袋小路──どこにも繋がらぬ吹き溜まりといったところか」
 王様の出した結論にうっすらと寒気が走る。私にきっかけの一端があるとはいえ、そんなわけのわからないところに人の魂を閉じ込めないでほしい。バグという言葉もなんだか心もとなかった。消したはずのセーブデータがニューゲームに重なるバグはよくあるが、大抵はすぐに消え去ってしまうものだ。
「明日消えるかもわからぬ高エネルギー空間……宇宙で燃える星と同じよ。いつ燃え尽きるかは誰にもわからん」
「そんな不安定な場所じゃ、明日の予定も立てられないじゃないですか」
 任務においても鍛錬においても、計画を立ててから行動をするタイプのため、先の見通しが立たないとなると不安だった。しかしいつまでもここで細かな粒子に足を洗われていても仕方がない。私はひとまず何もないこの場所においての前方というものを自分なりに定め、足を踏み出した。
「とりあえず歩いてみます」
「果てが見えぬな」
 一歩一歩と足を進め、さらさらと纏わりつく霊子の溜まりを踏みしめる。光源もないのに薄ぼんやりと明るいそこに、海のような水平線はなく、星の丸さというものを感じさせない。どこまでも先へと伸びて、空間は霞むようにぼやけている。ここは私の知る地上ではないのだ。嫌が応にもそう体感し、歩くほどに気が滅入る。
「王様、手を繋いでくれませんか」
 何か確かなものに触れていないと自分の存在すら消えてしまいそうだ。しかし王様がそんな甘えを許すはずもなく、つれない素振りであしらわれる。私は前を向いて歩き続けるしかなかった。一瞬でも目を閉じればどこが前かもわからなくなってしまいそうな景色だ。
 いくら歩いても何も見えないのだから、進んでも戻っても同じ気がした。寒くもないのに肌が粟立ち、目がかすむ。それでも足は止まらない。



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