episode 5
きおくに気後れ

数週間が経っても、彼との生活にこれといった変化はなかった。王様はいつでも自分のタイミングで寝起きしているし、私は私でそれに慣れ、一人暮らしとそう変わらない生活リズムを取り戻しつつある。週末には家を空けることもあったけれど、王様が決定的な不満を漏らすことはなく、翌日丸ごとを彼に捧げることで暗黙の了承としていた。
「ただいまかえりました」
 この挨拶にも、もうずいぶんと慣れてきている。
「入るな。出ろ」
 しかしその日は玄関を開けたとたん、にべもなく追い返された。
「なんだその臭いは! 断りもなく王を待たせたかと思えば、どこぞで酒を喰らっていただと?」
「し、仕方ないじゃないですか! 急に飲み会につれ出されたんです。わたしにも付き合いというものがあるんです」
「知ったことか。酒気が抜けるまでは外にいよ。ついでに頭を冷やせ。我と空間を共にしたくば、その腑抜け切った面を夜の冷気で引き締め直せ」
 共にするもなにもここは私の家だ。そうは思うが、たしかに少し飲みすぎたかもしれない。終電を逃しタクシーを拾ったは良いけれど、いま温かい部屋に直行すれば心身がふやけて酔いが加速しそうである。夜風にあたり酒を抜く必要はあるだろう。
 そう納得し、私は駐車場のベンチに座り込んだ。街灯の下、浮かび上がるフェンスを見て思い出すのは王様との邂逅だ。
 手負いの獣のようだった。今だってそうだが、多少は打ち解けたと思う。
 彼のような存在はこの世界にどのくらい居るのだろう。サーヴァントとやらにも死や寿命はあるのだろうか。キャスターがまだ父の隣にいるのだとしたら、その目的は何か。日々の生活に押し流され、きちんと向き合えていなかったいくつもの疑問が、こうしていると次々に浮かんでくる。そもそもの話、それらを知るために私は彼のような暴君の世話をしているのだ。
「ギルガメッシュ……」
 大仰さにしても刺々しさにしても、あの男にぴったりの名前だ。一方で、キャスターという偉人の名はいくら調べても思い当たらない。だとすれば、それは彼の本名ではないのかもしれない。うろうろと駐車場をさまよいながら思いを巡らせる。冷たい夜風が吹きすさび、ぶるりと体が震えた。そろそろエントランスに戻ろうと、ポケットから出した手を擦り合わせる。不意に街灯の明かりが消えた気がして、何の気なしに後ろを向いた。
 街灯は消えたのではなく、陰ったのだ。
 そう気付いたのは、背後にいた男の腕がこちらへ伸びたときだった。

   *

 無言でドアを開け、靴を脱ぐ。
 明かりのついた部屋にほっとしながら、コートの裾を握りしめた。
「戻りが早い。ちっとも酒臭さが抜けておらぬではないか」
「はい……」
 すみませんと謝りながら頭の中を整理して、彼の顔から、下駄箱の写真立て、カーテンの柄、フローリングの床へと視線をはしらせる。酔いはすっかり醒めているのにちっとも思考が働かない。とりあえず手を洗おうと思い立った私は、足速に洗面所へ向かった。
「待て」
「え」
「なんだその青い顔は」
 そんな私の様子に王様が疑問をもたないわけはないのだが、そのときの私は彼の反応にまで気を配る余裕がなかったのだ。
「耳が聞こえぬのか? 何があったかと聞いている」
 何があったのか、言うのは簡単だが躊躇われる。正体不明の後ろめたさと羞恥心に目を泳がせていると、王様が眼光を鋭くした。隠してもしょうがない。それに、本当は聞いてほしくてたまらないのだ。
「……痴漢が」
「痴漢だと? 何をされた」
「きゅ、急に後ろから抱きつかれて、体を……」
 言ったとたん、顔にどんどん熱が集まり耐えきれない気持ちになる。
「でもそれだけです、叫んだら逃げていきました」
 言い訳のように首を振る私を、王様は表情を変えずにじっと見た。
「でも、でもびっくりして」
「……」
「心臓が」
 指先の震えが寒気だか恐怖だかわからず、無性に温かいお湯を浴びたくなる。掴んでいたドアノブをぎこちなく下ろすと、背後から「阿呆のように呑んだくれるからであろうが」という声が聞こえた。涙が出そうになった私は、無言のままこくりと頷く。
「で、その男はどちらへ向かった」
「え?」
 聞かれ振り向くと、珍しく上着を羽織った王様の姿が見えた。襟のあたりを整えながら、何気ない口調で尋ねてくる。
「どっちって、たしか駅の方に」
「南だな」
「王様?」
「何を驚く。この我のマスターを辱めたのだ。斬首でも甘かろう」
「でもしばらくは、外へ出ないのでは」
「例外はある」
「だ、」
 未だ落ち着かない思考回路がますます混乱して目が回る。思わず顔を覗き込めば、彼の硬い表情の中にたしかな怒りが垣間見え、なんともいえず胸がざわついた。
「大丈夫です、本当に。夜中にうろついていた私も悪いし」
「この国の女には、好きな時間に街をうろつく権利もないのか?」
「それは」
「雑種、裁かれるべきを見誤るな。貴様に罪は一切ない。無論、外へ出した我も悪くない。罪人は不埒者ただ一人だ」
 きっぱりと言い切った王様の言葉に、強張っていた体がわななくように脱力し、耐えていた涙がこぼれ落ちる。それは安心の涙とも、恐怖の涙ともつかなかった。己の価値基準を疑わない、絶対的な強者を前にしたとき、震えるように込み上げる生理的な涙なのかもしれない。私は彼の袖口に手を添えてそっと息を吐く。直接触れるのはまだ少し怖い。
「王様。怒ってくれるのは嬉しいけれど、できれば今は一緒にいてほしい」
「……我がマスターともあろうものが、くだらぬ男に体を許すな」
「気を付けます」
 怒気を多少緩めると、彼はリビングへ戻り椅子に座った。
「他人だけの話ではない」
「え?」
 付け足された言葉の意味がわからず聞き返すも、彼はそれ以上何も言わなかった。
 王様がここに座るときはお腹が空いているときだ。出来合いの夕飯を適当に並べると、彼は一通り市販の惣菜に文句をつけたあと「王の食べるものではない」と切り捨てた。
「そのわりには完食するじゃないですか」
「貴様が作らぬからであろうが。今の我は本来ありえぬほどに不自由なのだ。週末は家に居るのだろうな」
「はい。今週はとくに、出かける予定はありません」
 揚げ出し豆腐を頬張りながら、当然だと頷く王は本来どのような目的のためにこの世界へ喚ばれたのだろう。見たことのない星空がまぶたの裏に浮かびあがり、私はまた息を吐いた。
 もどかしさと激情と、少しの幸福が胸に沁みる。


2018_02_17
- ナノ -