家具も床も、古びたニスを帯びて甘そうにてかっている。この国の調度品は日本と比べて彩度が低い。薄い光とくぐもった室内は、私のような人間にとってかえって居心地が良かった。一週間磨いてない床板をぼんやりと眺め、そろそろ掃除をしなくちゃなと思ったところで、視線の先に花が見えた。
花などいけていただろうか、と床の上の花弁を目で追いかける。そうしてすぐに得心がいった。これは生きた花ではない。生も死もなく再生と消失を繰り返す、美しく芳しいアヴァロンの幻花だ。
「マーリン」
「お休み中かな」
こうしてありふれた若者の格好をしていても、その魔力はたえず空気中に放出されているらしい。足跡のように残る花々から顔を上げれば、彼はいつもの笑顔を浮かべていた。
「掃除をしようかな、と思いつつ、起き上がる気力がなかったところ」
「お疲れかい? 無理はするものじゃない。そんなときは甘いものでも如何かな」
カウチから体を起こした私に向けて、彼は一包の小箱を差し出した。今日の日付を確認していなかったわけではない。世間ではひと月前と同じく義理と好意が飛び交う一日だ。けれど現世の暦に影響されない彼が、自らそのようなイベントに参加するとは思っていなかったので驚いてしまった。
「あ、ありがとう。ホワイトデー?」
「貰ったものは返さないと。女性に借りを作るのは嫌いじゃないが……先延ばしにした借りを清算できた試しがないからね」
彼の人生を考えれば突っ込みづらいことを言いながら、マーリンはまたくるくると魔法陣を描いた。ポットに沸いたのはここへ来た最初の日に淹れてくれたお茶だ。彼は時折りこうしてこのお茶を振る舞ってくれるため、不思議な香りにも慣れつつあった。
「美味しそう」
「迷ったんだが、クッキーにしたよ。焼き菓子なら君とお茶をする理由ができるしね」
そう言って笑うマーリンの顔があまりに愛情深かったものだから、私はつい視線をそらしてしまった。結われた長髪の先が椅子の背で揺れている。今日のマーリンはなんだかいつもと違うようだ。
「マ、マーリンの時代にはバレンタインの風習はあったの?」
「あれは三世紀のローマ発祥だからねえ、流布したのはもっと後世だし」
「そっか、ブリタニアとは縁が薄いか」
「今ではイングランドにもすっかり定着した、恋人たちの祭典だけど。日本ではどちらかというと、愛の告白に使われる日なのかな」
「今では友達や、お世話になった人たちにあげることも多いよ」
「そうかそうか、時代は移ろっていくものだねえ」
こんなに若々しい見目をしているのに、まるでおじいちゃんのようなことを言うマーリンがおかしくて私の気持ちはまた少し緩む。
「今日はマーリン、髪を結んでるんだね」
何気なくこぼした言葉だった。彼はそれをきっかけにテーブルの対面から手を伸ばすと、肩にかかる私の髪に指先で触れる。一瞬、まぶしい色が眼前ではぜた気がした。
反射的に閉じた目を恐る恐る開ければ、薄紅色の見慣れた花がふわふわと舞い散っていくのが見えた。それらがテーブルへすべて落ちる頃、髪の先に何かが乗っていることに気づく。
「この花は消えないよ。何せ既製品だ」
「既製品?」
「見慣れたような花が売り場で目にとまってね。君に似合いそうだと思ったから」
自分の髪を手で撫でて、するりと抜き取ればそれはレースでできた髪飾りだった。色も形もありふれた造花だが、見れば見るほどこの花さえも消えてしまいそうに儚く、私はそっと手のひらで包み込む。
「くれるの?」
「もちろん。王様とのデートの際は付けないほうが無難だが、良かったら普段使いにしてくれ」
「ありがとう……マーリンは本当に素敵な魔術師だね」
「お褒めに預かり光栄だが、ちょうどお茶もクッキーもなくなる。加えて他のリミットも迫っているようだ」
「他のリミット?」
こんな風に花の香りに囲まれた場所で、以前にも聞いたような台詞だ。席を立つ彼の背後でガチャリと大きくドアノブの音がして、私はその言葉の意味に気付く。
「……間男が、何を呑気に菓子などをつまんでおるか」
「間男とは人聞きの悪い。夜這うなら夜に来るさ」
マーリンと対面しているとき、ギルガメッシュ王はおしなべて冷静だ。煽りとも取れる軽口を叩かれてなお一歩引いたような態度を崩さない。これは彼なりの親愛の情、なんていうことはもちろんなく、むしろ警戒心の表れなのだと思う。
「ともかく、恋人たちの祭典を邪魔する気はない。最近は友チョコなるものも盛んらしいし、そういうものということで一つ納得してもらえないかな」
「白々しい。あの着地点で誤魔化したつもりか?」
「はて、着地点」
けれど今日は少し違っているようだ。マーリンにしてもどことなく態度が異なるのだが、それと関係しているのだろうか。王様はすれ違いざまに立ち止まると、眼光鋭く彼の目を見据えた。
「談話室でのやりとり、忘れたとは言わせぬぞ。貴様、心がないといえど虚言は吐かぬであろう」
「おや気付いたかい、あれは確かに安い挑発だったが、嘘偽りない本心でもある」
何の話かはわからない。けれど花畑を写し込んだようなマーリンの薄紫の目に、王様の赤がぎらりと反射した気がして、私は一瞬くらりとした。互いの持つ魔力が、密度が、底知れない化学反応を起こしながら空気を歪めている。部屋の中は真空のように音が消え、窓のガラスだけがジンジンと揺れた。
「言っておくがやらんぞ。我の物だ。愛でようと虐げようと、それは変わらん」
マーリンへ向けて王様が何かを告げたのが、遥か遠くの出来事のようにぼやけて伝わる。くらんだ頭を小さく振り、唾をごくりと飲み込んだときには二人の間の緊迫は緩み、飄々としたマーリンの足取りが廊下の向こうへ去っていくのが聞こえた。
「何を貰った」
「え?」
「あの間男に、何を渡されたかと聞いている」
気を取り直そうと立ち上がり、ポットにお湯を足していた私の背後で王様が神妙な顔をしている。怒っているのとも、呆れているのとも違う微妙な顔だ。
「髪飾りです。素敵でしょう、まるでアヴァロンの花のよう」
「なんだそれは、とんだ呪いのアイテムではないか。彼処がどのような場所か知っているのか」
「一応、逸話は知っていますけど……私も何度か夢に見たことがあるし。でもべつに由来なんかはどうでもいいんです。私がこれを見てマーリンの笑顔を思い出せる、ということが大事なの」
確かな本心でそう言ったあと、どこからともなく滲んだ冷や汗に慌てて言葉を足す。
「あ、その、純粋に心の励みとして、彼は家族のようなものだから……」
べつに先ほどの発言に後ろ暗さはないし、言い訳をするほうが不誠実だとは思うのだが、ときにはデリカシーというものも必要なのだと思う。
「何をもごもごと申しておるか、いらぬ気遣いがかえって不快だわ」
「はい……」
ふうと目を閉じて、先月と同じ茶葉を蒸す。じっくり三分待ったあと振り向けば、王様は椅子に座りもせず腕を組んだまま部屋の中央に仁王立ちしていた。彼の背後で黄金の輪が光ったのが見え、私の背中はぶるりと慄く。
「手を出せ」
「手?」
「問い返すな。出せと言われれば一も二もなく出せ」
「は、はい」
腕を削ぎ落とされるのだろうか、などと本気で思うわけではないが恐ろしくないといえば嘘になる。握手のように差し出した手のひらを、彼はぞんざいに上へ返し、ぽとりと一つ何かを落とした。
「……飴」
「褒美だ。嬉しかろう」
手のひらの中に小さく収まったのは、黄色いセロファンに包まれた飴玉だった。あの王様がよりにもよって宝物庫の中に、お菓子を常備しているという事実がおかしくて私は王様の顔をまじまじと見つめ返してしまう。
「嬉しいです。王様の、飴」
「めったなことでやる物ではないぞ。大切にとっておけ」
「一生とっておきます。棺桶に入れてもらいますね」
「そこまでせんでいいわ」
嬉しさと愛おしさで、本当は今すぐ王様の胸に抱きついてしまいたかったけれど、私はぐっとこらえて息を吸う。窓の明かりにかざしながら色を見て、そのあと鼻先に近づけて匂いを嗅いだ。
「いい匂い。嬉しい」
「……」
「王様から飴をもらえるなんて思わなかったから、すごく嬉しいです」
「そうか」
「丸い飴ですね。腐ったりしないかな。どこにしまおう……チェストでも平気ですか?」
「さあな」
「可愛い色ですね、何味なんだろうか。匂いはそうですね……甘いです。私あまり鼻がよくないんだろうか、わからない。でもフルーツの気がします。そうですか? 王様」
「貴様、たかが飴一つで浮かれすぎではないか……?」
自分から有り難がれと言った癖に、王様は私の問いかけに心底呆れたという声でそう返す。そう言われたって、たかが飴一つ、されど飴一つだ。きっと特別な親しみの証なのだろうと思わずにはいられない。彼が誰彼かまわず菓子を配る姿など、とても想像できないからだ。
「これでは我が阿呆のようではないか!」
「どうして!」
「飴なんぞで色めくでないわ。不満を零せば手首ごと斬り落としてやろうかと思ったが、そこまでの反応など望んでおらん」
「も、もしかして他にも何かあったんですか?」
「思い上がるな、何ゆえ王がそういくつも雑種に下賜せねばならん」
「そうですよね」
「貴様に、我からの情以上の褒美があるのか」
「情……」
組んでいた手を再び解き、王様は私の顔に触れる。ひと月前にこの場所でされたよくわからないコミュニケーションと違い、それは労わるような、確かめるような温かい手つきだった。
「どんな……情ですか」
「さてな、好きに受け取れ。だが多くは求めるな」
彼はそう言ってじっとこちらを見る。先ほど散った火花のような赤い光が、今度は私の中に入り込んで指先にまで染み渡る。王様の優しさも厳しさも、私には毒だ。でもいつしかその毒を、飴のように欲してしまっている。
「王様、顔を」
もう少し触ってもらえませんか。
私がそう言うと、王様は大きな手でもう二度、三度、頬を撫でた。指先が横髪を掬い、耳に触れ、少しだけ首がすくむ。気持ちよくて涙が出てしまいそうだ。強く閉じた目尻に熱が滲む。
この瞬間がどこか遠い空の向こうに、一つの星として刻まれればいい。夢で見たシュメルの空のように、神話として遺りつづければいい。
そんな願いは冒涜だろうか。手のひらの飴を、ぎゅっと握る。包みを開ける日はきっと来ない。