一般的な父親からのメールというのがどのようなものかは知らないが、内容だけ見ればそうおかしくはないと思う。簡素だが、だらだらと文字を打つ歳でもないし、娘の生活への心配と注告だってとりわけ珍しくはないだろう。
しかし問題は、初めの一文にあった。こちらに変わりはないと言われたところで、私は父がどこにいて何をしているのかも知らないのだ。今までは読み流していた定型文に、無性にもやもやとして溜息をついた。
「朝から辛気臭い顔をするな」
いつの間に起きたのか、ベッドに座りながらこちらを見ていた王様と、鏡越しに目が合う。鏡台の前に膝をつき職場用の化粧をしていた私に、彼はやはり無機質な視線を向けていた。笑ったり怒ったりしているときはまだいい。けれどこうして顔から表情を消していると、その人外じみた美しさに拍車がかかりぞっとする。なんでも良いから表情を浮かべて欲しくて、私はせわしなく相槌をうつ。
「ちょっと、疲れが。……王様はどうですか? 朝ごはん食べますか?」
「……」
「ご飯といえば私、今日は帰りが遅くなるというか、帰るかどうかわからないので」
「帰らぬだと?」
「はい、冷蔵庫に作り置きがあるんですが、王様って電子レンジ使えましたっけ」
昨夜聞いておけばよかったのだが、食事のあと、彼は早々に寝てしまったため切り出す暇がなかった。彼はいつもそんな調子だし、一日くらい家を空けても平気なのだと思う。社会人にとっての週末とは、ささやかながら特別なものなのだ。
「我に給仕をしろと言うのか?」
「しょうがないじゃないですか。今日はデートなんです」
表情が欲しいとは思ったが、あからさまな怒気を放たれればやはり怖い。この王の情緒が中庸に留まることはないのだろうか。
「王を差し置いて、下僕が逢い引きだと? 貴様は本当に、我の魔力源でさえなければすぐにでも腹を裂き中身を撒いておるぞ」
なんて恐ろしいことを言うのだろう。以前見たとおり、彼に不思議な能力があることは理解している。腕力の強さや身の捌きからして、戦闘に長けた人物であることは間違いない。付け焼き刃の知識だが、ギルガメッシュ王が他に類を見ないほど優れた戦士であったことも先日知った。けれどすべてを加味しても、私が週末のデートを中止する理由にはならない。
「土曜日には、戻りますから」
彼の言うマスターとしての責務というものがどのようなものかはわからないが、長く生活を共にするならば互いの妥協点は必要だろう。王様にその気があれば、きっと残虐な手段で私を支配することだってできるはずだ。けれど今のところ、彼にそこまでの意思はないようだった。今は必要以上の干渉をするのも、されるのも億劫なのかもしれない。
「王様も、少し風に当たってきては? 篭りっきりじゃかえって体に良くないですよ」
「しばらく表には出ぬ。くだらぬ進言をする暇があればさっさと身支度をして労働に勤しまぬか」
納得したのかどうなのか、彼はそう言うとやはり身を横たえ、目を閉じてしまった。少し胸が痛んだが、割り切って玄関のドアを閉じる。
その晩と翌日──恋人と過ごしているあいだ、家に居る王様のことが気にかからなったと言えば嘘になる。
けれど一変した生活から解放され、いつも通りの週末を過ごせたことは私にとって救いだった。背を向けて横たわる王様の姿を思い出すたび、ちくちくと胸が痛んだが、それが果たしてどちらに対する罪悪感であるのか今の私には判断できない。
その日は、空に開く穴の夢を見た。恋人のぬくもりをかすかに感じながら、私は闇の中、無我夢中でどこかへと駆けていた。
*
「ただいま、かえりました〜」
そっとドアを開け、部屋に入る。昼下がりのマンションの一室は、人がいるとは思えない静けさを帯びている。
リビングを抜けベッドを見ると、彼は窓から差す陽光をあびながら、わずかに肩を上下させていた。その動きがあまりに心もとなく、私はつい口元に手をやり呼吸を確認した。指先に触れる吐息にほっとしかけたところで、突然腕を掴まれ、思わず声を上げる。
「ひゃ、王さま」
「……」
「あの、戻りました……窓を開けますね」
濃い赤の目が、太陽に透かされ朱色に見える。
流れ込んだ風が彼の髪を揺らすのを見て、私はなぜだか懐かしい気持ちになった。すべての生命の根源に触れるような、純粋なみずみずしさが心の内にあふれてくる。何処かの国でゆれる麦の穂が、さわさわと耳に鳴るようだ。
「遅い」
白昼夢をかき消したのは王様の低い声だった。不機嫌を煮詰めたような声色に、べつの意味で目が潤む。あわて飛び退いて、背後の冷蔵庫をのぞけば、置いていった惣菜はすべて皿のまま残っていた。
「いま温めますね」
もしかしなくとも、彼は私がこの部屋を出てから、一歩も動いていないのではないか。右腕のない彼は大抵同じ姿勢をとっているし、寝返りすらろくに打っていない可能性がある。たとえ人でないとはいえ、これは明らかに不健康だ。
「散歩でも、行きます?」
「表へは出ぬ」
「でも」
「貴様はただそこにいろ。今日明日と、我の元を離れることは許さん」
「……はい」
命令にもあまり覇気がない。口調は厳しいが声にいつものような迫力はなかった。ひとまず食事をと、皿を並べ様子を見るが行動にこれといった変化はなく、きれいに食べ終え、お湯を浴び、冷たい水を飲み干すとまた壁の方を向いてしまった。
仕方なしに、それ以上はかまわず私も私のことをする。出かける用事もなかったため、彼の傍で本を読んだり料理をしたりしながら、週末をのんびりと過ごした。体のサイクルが戻ったのか、日曜日が終わるころには王様の調子も大分戻り、また腹立たしい悪態などをつくようになっていた。
私は王様の横で夢も見ずに眠り、代わりにふとした瞬間に、既視感のような心の揺らぎを感じるようになった。それは乾いた土の匂いだったり、水の湧きでる音だったり、闇に浮かぶ無数の灯の色だったりした。知るようで知らない懐かしさが、感覚器官の隙間を通り抜けるのだ。
その度に私は静かに息を吐いた。王様は何も言わなかったけれど、私の感覚が彼のそれと同調しつつあることに気付いているようだった。日常的な不自由はとくにない。パスによって繋がることの副作用のようなものかもしれない。けれど少しだけ困るのは、自分のものでもない郷愁にとらわれて、胸がしんしんと痛むことだ。