濃縮された時間の波から足を上げ、地につま先をつけてみると、そこにはいつもの朝が広がっていた。まるで長い夢から覚めたようだ。
「王さま」
寝ぼけ眼にうつりこむ世界はまぎれもなく現実である。けれど今までとはわずかに、そして確実に違っているように見えた。うなじにあたる王様の息があたたかい。私が一言呼びかけると、彼はうんと唸り寝返りをうった。
金色の髪がさらりと揺れ、形のいい耳がすぐそこに見える。私は背を起こし服を羽織ると、コップに一杯の水を注ぎ、飲み干した。襲うめまいが立ちくらみなのか、空腹からか、それとも気持ちの問題か、わからずに目を閉じる。授業を受けるならもう家を出ないと間に合わない。体調がすぐれない気がしたが、そう何日も休むわけにはいかない。最低限の食事だけして着替えようと決めたところで、王様の声が耳に入った。
「……今日はやめておけ」
「え?」
「家を出るな」
こちらに背を向けたまま、王様はそう告げる。
「でも、昨日も休んじゃったし」
「だからだ」
王様は気怠げな所作で起き上がると、ベッドの上で片膝を組み、首に手のひらを当てた。何気ない仕草だが彼がするとよくできた彫像のようだ。服を着ていないこともそう咎める気にならない。
「一日床に臥し、ろくにものを食べておらぬだろうが。そうでなくともここ数日、頓にやつれたぞ」
「……」
「これは我の命令だ。余計なことを考えずもう一眠りしろ。わかったな」
その言葉に、不思議と心が軽くなるのを感じた。命令というのもいろいろな効用があるようだ。王様の命令なら仕方がないと、罪悪感はやわらいで眠気に絡めとられていく。「何か食べてから寝ろ」と言う王様の声も遠くへぼやけ、私は再びシーツの上へうつ伏せる。
豪勢な晩餐だ。大広間には色とりどりのごちそうが並び、周りには蝶のような踊り子が舞っている。祝いの織り布が提げれらたそこは、どうやら王の凱旋を讃える宴場であるらしい。
初めて目にする料理や果物のなかに、ちらほらと見知ったものがあるのはなぜだろう。芳醇な香りが鼻に香る。自然と伸びた手が銀の皿に触れようとしたとき、何か柔らかなものが指を掠めた。それは一つの皿に同じく伸ばされた、長く、美しい指先だった。
温度の低い肌はマーリンによく似ているが、するりと整った造作はとても中性的だ。無機質と言えるほどしなやかなこの腕は誰のものか。顔を覗きたいのに夢の中の視野はおぼろげである。代わりに目の端に映り込んだのは長い髪だった。若葉のように鮮やかな緑色をしている。以前にも感じた親しげな距離感に、心がゆるむのを感じる。自然と笑みを浮かべながら、その手へさらに触れようとした瞬間──反対に、私の腕を掴む者がいた。
「起きろ。それ以上痩せ細るつもりか」
頭の上から声がして、目を開ける。私に触れている温かな手は王様のものだ。彼の手がぐるりと回ってなお余る私の手首は、たしかに近ごろ細くなった気がする。
「肥えろとは言わんが、これでは抱きがいがない。もう少し女ぶりを上げろ」
叱りながら私を抱き起こす彼の背後で、ふつふつと音をたてているのは見慣れたシチュー鍋だった。夢の中と同じ匂いがすることに驚いていると、王様の指が顎を掴む。
「鵞鳥のように口に詰めてやろうか」
「い、いえ」
ふらふらと腰を上げキッチンへ立つ。コンロにはシチュー鍋の他に卵料理の乗ったフライパンもあり、私が寝ているあいだに彼が手際よく準備をしてくれたことがわかった。そうして思い出すのは先ほどまでの光景である。宮殿の食べ物に見覚えがあったのは、王様自身がこのようにして、祖国の料理をふるまってくれているからだ。
「おいしい。やっぱり王様、料理上手ですね」
「食材が揃わないのが難だな。欧州の島国では仕方のないことだが」
香辛料で煮た鶏肉も、豆と野菜のスープも、疲れた体によくしみる。同じ川のほとりでも、チグリス川とテムズ川では食文化がまるで違うだろうが、いまは便利なスーパーもある。今度食材の充実したピカデリーのデパートに連れて行ったら喜んでくれるかもしれない。
私が遅い昼食を食べ終えるまでのあいだ、彼は隣で脚を組みロンドンのタブロイド紙を読んでいた。誰がいつのまに契約したのか知らないが、近ごろ毎日フラットハウスのポストに投函されるものだ。食後のお茶を飲んでいると、ふいに首筋をなぞられ横を向く。紙面から顔を上げた王様の指が、私の首に伸びていた。
彼は彼が授けた金の鎖の、その下に残る一筋の傷に触れていた。もう赤みは引いているけれど、触られると少しかゆい。王様は昨夜も親猫のようにここを何度も舐めた。自分でつけた傷を舐めるのは支配欲の証だと聞いたことがある。
「ごちそうさまでした」
「……ああ」
そう言ってマグカップを置くと、王様は浅く頷き手を離した。
手元の食器のふちをなぞる。そんな感覚で私に触れるのかもしれない。この先も私は彼にとっての所有物なのだろう。けれどやはり、その視線に今までにない温度を感じてしまう。王様の目も、そこに映る自分も、昨夜を境にして少しずつ変化しているのだ。
*
「お騒がせしました」
談話室の椅子にかけていた花の魔術師は、私の顔を見るや否や、安心したように眉を下げた。
「本当に。私の予定では仲直りに失敗して、今頃名前を貰い受けているはずだったんだけど」
口ではおどけているが表情は穏やかだ。いつでも彼の言葉に助けられている。茫然自失のまま過ごした夜に、ずっと手を握ってくれていたことをいまさら思い出し、私はもう一度礼を言った。
「世迷言をほざくな。他の誰にやろうとも貴様にだけはやらん」
「他の誰にもあげる気ないくせに」
マーリンの言葉は王に対しても遠慮がない。王様は言い返されたことに初めむっとしていたが、すぐに目を閉じ腕を組んだ。
「そうだな。一度手に入れたものを手放すようでは器が知れる」
きっとあの晩もうまく諌めてくれたのだと思う。王様の料理がまだ部屋に残っているので、あとで彼にもおすそ分けをしようか。そんなことを思っていると、奥の書斎から父が顔を出した。
「なんだ。喧嘩してたのかい」
父は分厚い魔道書を片手にそう言うと、自分の娘と自分のサーヴァントの顔を交互に見た。
「喧嘩はよくない。仲良くしなさい」
「……貴様の説教は本当に的を射ぬな」
さすがの王様も呆れている。今夜は父も部屋へ呼んで、ホームパーティーでもしたらいい。きっとそれはあの晩餐のように賑やかだ。
*
その後、王様から女性の気配が漂うことはなかった。隠す努力をしているのか、会っていないのかはわからない。けれど、どちらでも構わない気がした。「そんなこと」と彼は言っていたし、きっといまだって理解はしていないだろう。理解し合えなくとも大事にすることはできる。それが伝わるから、もうどちらでもいいのだ。
そもそも夜遊びにも飽きてきたようで、近頃は若者の装いもせず英霊の装束でうろうろしていることが多い。姿を消し父と行動を共にしたかと思えば、退屈だと言いながら窓辺で日を浴びている。
「どこがいいの? その人」
凛の言葉に他意はなかったと思う。
何気ない世間話の延長で、私のネックレスに視線を落としながら彼女がそう聞いたものだから、私は深く考え込んでしまった。
「……ご飯を、残さないところ?」
長々と熟考した末に発したのがそんな言葉だったため、彼女は拍子抜けしたというように息を吐いた。
「あ、あとたまに、スープとか作ってくれる」
「まあ……食の相性って大事よね」
気を遣っているのか、自分と重ねてか、彼女にしては歯切れの悪い口調で頷くため、私はなんだかもどかしくなった。王様の魅力を私の言葉で言い表すことは難しいが、食い意地の張った印象だけを持たれてはかわいそうだ。
「えーと、頭がすごく良くて、物知りで、頼りになる。決断力があって、自信があって、強い人。それから」
「……」
「目が綺麗。声も、好き。いつもは堂々としてるけど、意外と甘えたがりなところがかわいくて」
「あーもういいわ、聞いてて小っ恥ずかしい」
つい喋りすぎた私の前でぱたぱたと手を振って、遠坂凛は首をすくめた。
「それにあんまり聞いちゃうと、いつか本人に会ったときどんな顔すればいいかわからないしね」
彼らが会うとしたらそれは世界の終わりだろう。大げさでなくそう思ったが、心にしまう。そしてもう一言、これだけは言葉にしたいと思い「あとね」と続けた。
「私のこと、好きなんだと思う」
言ったとたん肩の力が抜け、心に風が吹いた。呆れるかと思った凛は、花のように笑っている。私もつられて笑顔になった。
廊下の向こうに彼女の想い人が見える。窓の外には青い芝が広がっている。
あの朝から少しだけ、やはり世界は違って見えた。特別驚くことではないだろう。生きていくこととは日々、世界をアップデートし続けることなのだ。
ぶつかって溶け合って、色を変える。大きな傷と小さな傷が、とき折り赤く熱をもつ。
私たちの人生は傷の記録だ。そこに違いはないのだと思う。人であっても、人でなくとも。