時の流れが歪んでいるようで、時計の針がちぐはぐに思える。数分が永遠に続いたかと思えば、ふと目を離した隙に数時間が経っていたりするのだ。
自分の精神が不安定なことはわかるが、原因や解決策を考えようとすると頭がぼんやりしてきてしまう。情けないと思うが、仕方ないとも思う。自分のことだというのに、心や体にかかった負荷がどれほどのものなのか、いまいち判断ができない。
酷いことをされたと思うが、相手が古代の暴君だということを鑑みれば、当然のような気もする。生きてきた時代の常識と、魔術師として得た新たな価値観。それらを擦り合わせようとするとエラーが発生し、うまく感情を処理できなくなる。
そこまで考えたところで、溜息をついた。
当たり前のことだ。魔術は魔術、生活は生活。本来ならそうあるべきなのだ。それらが混ざり合ってしまった原因なんて、考えるまでもなく明らかである。
英霊に恋をした。
それが唯一にして、最大の理由だ。身近な人間に抱くべき恋愛感情をはるか太古の王に抱き、自らのセーフティーゾーンを明け渡したのは私自身である。利害関係であれば割りきれる倫理観の違いを、うまく受け止められないのは、一番プライベートな部分にまで彼を引き入れてしまっているからだ。そんなものに耐えられる人間はいない。齟齬はいつかひずみになり、ひび割れる。そう自覚すればするほど、ただありきたりに、胸が痛んだ。
捨てられてしまった。壊れてしまった。王様は私の代わりを探しに行くのだろうか。それとも、もうとっくに私以上のお気に入りがあるのだろうか。胸が痛むのに涙が出ない。感情が肺のあたりにふきだまって重く重く行き場をなくしている。深く息をしようとしても、絞められた首がいまでも苦しくて、喉がひきつるのだ。私は浅い呼吸を繰り返しながら自分の体を叱咤した。このまま倦怠に身を任せていたら鼓動ごと、とろとろと止まってしまいそうだ。
時計の針はちょうど真上を指している。延々とうなされていた気がしたが、あれからまだ一日しか経っていない。今日は初めて授業を休んでしまった。明日は行けるだろうか。一緒にランチを食べる約束をしていたから、凛は心配しているだろう。士郎くんは──。
彼の名前を思い浮かべた途端、ぞくりと背筋が震えた。たまらなくなって寝返りを打つ。肩に冷たい感触がして、目をやればシーツの隙間に千切れた鎖が見えた。そういえば、昨日はこれを手にしたまま眠ったのだった。
背を起こし、もう一度確かめる。鎖が切れただけなのに、金も赤もくぐもり輝きを失ったように見える。
少しのあいだ、眺めていただけのつもりだった。
けれど時計はぐるりと進み、気づけばまた数時間が経っていた。俯いた視界の端に鎧のつま先が見える。少し前から見えていたのに反応できなかったのは、私の五感が馬鹿になってしまっているからだ。
「いつまでそうしている」
呆れたような王様の声にも、やはり返事を返せない。
「そんなもの……代わりをやる」
彼はそう言うと、宝物庫の丸い波紋を一つ開いた。糸のような金の鎖を、そこからするすると手繰り寄せる。
「いらない」
今度は不思議と、喉の奥から声が出た。
「私は……高価なものが欲しいんじゃない。あの日、王様が買ってくれたこのネックレスが、なにより」
どうしてそんなこともわからないのだろう。私の言葉に、王様は思いのほか素直に波紋を閉じ、腕を組んだ。言いたいことがたくさんある気がしたし、もうなにも言いたくない気もした。聞きたいことも同じだ。聞いても教えてくれないのだから、口を開いてまで傷つきたくはない。そもそも物は口をきかない。壊れていれば尚さらだ。
「あれは、我の腕を斬った張本人だ」
また感覚を遮断してしまおうと目を閉じたとき、王様がはっきりとそう言った。
私はゆっくり顔を上げ、彼の目を見る。鋭く細められているけれど、昨夜のような熱さはない。
「それ以上の説明がいるか」
「……いえ」
うっすらと予想していたことを彼の口から告げられ、私は少なからず動揺した。助けなければ致命傷になり得たあの傷を、王様に与えたのは私の学友だという。
「彼は友達です」
衝撃を受けながらも、それ以上に不思議な高揚感があった。王様の口から聞かされる王様の過去は、たとえどんな内容であれ胸を震わせる。
「親切だし、いい人です。でも私は、べつに彼のことを」
「よい」
「え?」
「それ以上の説明はよい」
私はこくりと頷き「わかりました」と答えるつもりが、つい「好きです」と言ってしまった。
脈絡のない告白に、王様は驚いている。言った私ですら驚いているのだから当然だ。
「……好きです。王様のこと、ちゃんと好きです。信じてください」
言葉があふれたのと同時に、ずっと出なかった涙まであっけなくこぼれる。つたった涙が首筋の傷にしみる。痛みがあり、熱さがあった。ここしばらく体を覆っていた胡乱な膜が、じわじわと溶け出していくのを感じる。
「では、何ゆえ拒む」
「拒んでなんか」
「体の話だ」
言いたいことはたくさんある。そして、言わなければいけないことが一つあった。何度も言おうとして、そのたび飲み込んだ言葉だ。言えばますます惨めな気持ちになりそうで、おこがましいと理由をつけて見て見ぬふりをした。けれど体は頭のように割りきってはくれなかった。君は人間だ、言いたいことを言えばいい。優しい人の言葉を思い出しながら、息を吐く。
「他の人を抱いた後に、私のこと、抱かないで」
震えて掠れていたと思う。私はまったく自信なんて持てないのだ。大げさな卑下でなく、ごく当たり前に不安に思う。国中の美女を愛で尽くしたなどとのたまう王を相手に、いったい誰が自信なんて持てるというのか。
「……なんだ貴様、そんなことを気にしていたのか?」
「そんなことって……悲しくなる。しょせん大勢のうちの一人だって思い知らされて、惨めになる」
「何ゆえそうなる。何ゆえわからんのだ貴様は」
王様はそう言うと、呆れるというよりも、むしろ戸惑ったような様子で視線をさまよわせた。
「貴様ほどの不敬を、日々働く阿呆が他のどこにいる? 貴様は、我をそこまで寛容と思っているのか?」
「……」
「何ゆえそこまで自信を持てぬ」
「だって、私」
処女でもないし、金髪でも碧い目でもない。声に出したらまた阿呆かと言われるかもしれない。けれど彼の並べ連ねる彼の好みが、自分にちっとも当てはまらないことを悲しく思っていた。それがそんなにおかしなことだろうか。
「大した女じゃないって」
「その通りだ。貴様は大した女ではない。目の色も髪の色もさして好みではない。だが……」
はっきりとそう言って、王様は逸らしていた視線を私に合わせる。
「手放すつもりはない。我の物でいよ」
「ほんとに……酷い人ですね。こんなときくらい褒められないの?」
「我が所有した時点で、貴様の価値は確かなのだ。それ以上の賛美がいるか?」
そんな逆説を理解しろというほうが無茶だ。そもそも私は物ではない。
力んでいた体が脱力し、胸から空気が抜けていく。急につかえが取れた心地がして、私の喉はずいぶんと通りが良くなっていた。
「じゃあ、他の人は所有しないで。触れてもいいから、所有はしないで」
「しておらぬわ。あいにくと今は小煩く吠える雑種の世話で、手がふさがっておるゆえな」
王様は再び宝物庫を開くと、やはり金の鎖を手繰った。切れた鎖からルビーを抜きとり、付け替える。
「外すな。常につけておけ。その鎖は純金ゆえ錆びぬ」
耳元へ落とされた声の穏やかさに、心がゆっくりとほどけていく。同じものではないけれど、これも王様からの愛情であることに違いはない。首筋にゆれる鎖の感触がさらさらとくすぐったく、私は久しぶりに王様に触れられたいと思った。
「王様、抱いてください」
「……」
「お願い。触って」
「よせ。加減ができぬ」
「しなくていい。私のこと、もし壊したいなら……」
無性に胸が苦しい。今度はその苦しさがきちんと涙になった。
「いま壊して」
ぼろぼろとこぼれていく水滴が、王様の手に拭われて頬に溜まる。何度蹂躙されても、まるで次の蹂躙を待つようにこの人のことを愛してしまう。そんなふうにして命を落とした者は数知れないのだと思う。
「阿呆のように健やかな貴様に、そうまで言わせるとは……我の罪もいよいよ裁き切れぬな」
彼の声には珍しく、彼らしからぬ何かの響きが混ざっていた。それが何かはわからない。王様にもわからないのかもしれない。
いまだにうまく快感を得られない私の体を、王様はまるで処女を抱くように丁寧に抱いた。指や口が、強張る体を少しずつほぐし、快感の得かたを思い出させる。不甲斐ない私が縋り付いてどんなに泣いても、彼は辛抱強く背を撫でてくれた。
「我はな、実のところ、女の愛し方というものがわからぬ」
彼がそう言ったのは明け方近く──行為の後で、うとうと微睡んでいたときのことだった。
「愛で方はわかる。口付けをして抱いてやればよい。だがそれは愛するという行為ではなかろう」
疲れ果てた私は息だけで相槌をうって、王様の横顔を見る。
「気高き女を……崇高な少女を我が物にしようと追い求めたこともあったが、それも結局叶わなかった。我にとって女とは服従させ、支配するものだ。ゆえに泣き顔が一番そそる」
王様は独り言のようにつぶやいて、寝返りをうつ。こちらを向いた赤い瞳に、自分の影が映っているのが見えた。これはきっと貴重な言葉だ。小さく鮮やかな宝石のように、胸にとどめなくてはいけない。私はそう思い彼の目をじっと覗いた。いつもは怖くてできないことだ。王様も眠たいのか、いつになく緩やかで角のとれた声をしている。
「だがお前は……本当によく泣くな。いささか見飽きたぞ」
「……」
「笑っていろ」
王様の指が触れてようやく、私はまた自分が泣いていることに気付いた。
目を閉じて思い描く。
麦畑と高い壁。時計塔と低い空。ちぐはぐなそれらが混ざり合い、やがて二人だけの庭となる。時代も場所も飛び超えた、小さく特別な箱庭だ。私は彼のもので、彼は私だけのもので、世界や宇宙すら、私たちを所有することはできないのだ。