単独行動という権限はやっかいなものだ。マスターである名字がこうしてあちこちと移動しているというのに、当のサーヴァントはどこで何をしているのか姿を見せない。
そも、マスターを必要としない私のような風来坊に言われたくはないだろうが、近頃は夜遊びばかりして節操がないと思っていたところだ。夢魔の私ですら現世の女性にところかまわず手を出すなどという暴挙は慎んでいるというのに、古代の王様はおかまいなしである。
目立ちすぎることはもちろん、英霊が不用意に人間と関係するものではない。……という建前もあるが、何よりも気になるのは彼女のことだ。一途に想われていることを知りながら、彼女を傷つけるのは王様の趣味か、それともただの無神経か。
デートの翌朝、ネックレスを揺らしながら「貰ったの」と報告してくれた彼女の顔を、どれだけ愛おしいと思ったことか。私にとって名前の笑顔は何にも勝る宝石のようなものだ。人の営みを美しい紋様のように遠くから眺めてきた私が、いざその一粒に触れたとき、あまりの脆さに驚いたことを覚えている。幼い名前はよく私に懐いてくれた。季節を追うごとに成長する少女の姿は、とても儚く、力強く、私にとある記憶を思い出させた。好き勝手に生きてきた私が唯一誇ることのできる、またいつまでも後悔の残る、遠い昔の記憶だ。
家路に着いた時点で嫌な予感はしていた。
キャスターの権限には魔力感知が含まれる。離れていてもちりちりと肌に刺さるこの気配は、たしかにギルガメッシュ王のものだ。私はひとまず彼女の父には告げず、一人で二階の角部屋へと赴いた。
ドアを開けてすぐ、予感が的中したことを知り、声にならない息を吐く。思った以上の有様に、呆れを通り越して怒りのような感情がわいた。心ない私ですら胸の痛む所業だ。部屋の隅にいる名前の体はあちこち痣だらけで、鎖骨には血の跡が幾筋かつたっている。何よりも目に付くのは首周りにぐるりとついた痛々しい絞め跡だ。
そんな状態だというのに彼女は泣くこともせず、ぼんやりと床に座り込んでいた。私が入ってきても、体を隠すことすら思い付かないという表情で、手のひらに握り込んだ何かを見ている。
「大事にしてたのに」
ぽつりとそう言って、彼女は瞼を伏せた。
悲しそうな声のわりに、表情が薄い。彼女の精神状態がいつになく悪いことに気付き、私はそっと肩に触れた。魔術を詠もようとして、思いとどまる。これは私が一瞬で治していい傷ではない。付けた者の知らぬところで、なかったことにしていいものではないはずだ。あの男はどこにいるのだろう。姿は見えないがそう遠くへは行っていないはずである。
私は代わりにベッドルームからタオルケットを持ってきて、彼女にかけた。
「横になるかい」
私の言葉には答えずに、彼女はやはりじっと手の中を見ている。
「王様にとっては、このネックレスも、私も、他の女の人たちも大して変わらない」
「名前」
「そんなのずっとわかってた」
「……」
「つもりだった」
それは違うと思ったが、口に出すことはできなかった。彼女の好意を、王が憎からず思っていることは本人の口から聞いたことがある。ふとした眼差しや言動からもその心情は読みとれ、なんと珍しいことかと驚いていたのだ。
けれど現代の価値観で生まれ育った彼女に、それを察しろというのは酷だろう。自分本位に命令をし、己の欲をぶつけ、数多の女を抱き、隠そうともせずあけすけに振る舞う。そんなことが当然のように続けば、頭でいくら理解をしようとも心は少しずつ磨耗する。今日、何が彼の怒りをかったのかはわからないが、耐えた結果がこれではあんまりだ。
「こんなのは酷いね」
彼女の肩を抱きすくめながら、慰めるように髪を撫でる。
「もう、いらないって」
「……そんなことはない」
「だってもう、使えないって」
彼女の心は歪みかけている。自分を物と思うことに疑問をもたなくなっている。ちぎられたネックレスとともに、自らも不要な物であるという呪いをかけられてしまったのだ。
「君は人間だ。言いたいことを言ったらいい」
「いえない」
「どうして?」
「王様にとっては、ふつうのことだから」
「でも君は嫌なんだろう」
「……いえない」
「王様は、君のことを特別に思っているはずだ」
諭してみても、名前は小さな子供のように首をふるばかりだ。
「私のとりえ、感度だけだって。それだってもう……ダメになっちゃったし……なんでかわからないけど、体が」
そこまで言って、名前はようやく眉を下げる。
「ごめんマーリン、こんな話」
「いいよ」
タオルケットの前を握りしめながら、彼女は一際小さな声を出した。
「それに王様、私が心変わりしたって思ってる」
それは、いままでに聞いたどの声よりも辛く寂しそうなものだった。私まで心臓を刺されたような気になって、息が詰まる。返す言葉が見当たらず、頬を撫でた。彼女はやはり泣いていない。ただ俯いて、床の木目を静かに見ていた。
*
あの王様のそばにいられる女性だ。大抵のことは受け流し、おおらかに構える術を身に付けているのだろうと思っていた。けれど違う。彼女はすべてに、律儀に、傷ついている。生まれ育ったこの世界の仕組みの中で、新たな世界や、かつての世界を受け止めようと心に決めた、強く傷つきやすい女の子なのだ。
「ようやく眠ったよ」
ベッドへ運んでからもじっと天井を見つめていた彼女が、規則的な寝息を漏らしはじめたのは明け方近くのことだった。談話室で肘をついていた王様にそう告げると、彼は私を一瞥し、すぐにまた目を閉じる。
「手を出さんとは意外だな。付け込むなら今だぞ」
「……思ってもいないことを言うものじゃない」
一言目がそれかと呆れるが、私が彼女の手を握っている間も王様の魔力はちりちりと肌に刺さっていた。牽制をするくらいなら無責任に放りだすなと思いながら、いっそ本当に付け込んでやろうかとも考えたが、我慢をしたのは彼女を思ってのことである。
「いや失礼、思ってもいないことを言って人を傷つけるのは、王様の特技だったね」
「何の話だ。我は思ったことしか言わん」
「感度だけがとりえだなんて、よく言えたものだよ」
「間違ってはいまい。あれは平凡だが、抱き心地は悪くない」
悪びれるということを知らないこの男は、腹の中の起爆剤をゆらゆらと揺らしながら表面上の平静を保っている。けれどいつになく危うい均衡だということはわかった。言葉選びを間違えれば、この町が吹き飛ぼうと私ごと憂さ晴らしに巻き込むだろう。けれど私にも言いたいことの一つ二つ、三つくらいはある。
「もういらないと、使えない女だと言ったのかい」
「なに……首を絞めれば使えぬこともない」
その返答に、私は杖を握り直した。穏便に済ませることができるかどうかは私の忍耐力にかかっているようだ。
「物のように扱い続けて、壊したのは君だろう。それをよりにもよって……彼女の心変わりを疑うとは。呆れた身勝手さだ」
「あの女の不感症が何ゆえ我のせいになる? 我に抱かれて悦ばぬのだ。不貞を疑うは当然のこと」
「……」
「それにな、よりにもよって、はこちらの台詞だ。あのような小僧と関わろうなぞ……情がなければ絞め殺しておった」
あれでも加減したのだと言わんばかりの言い草に、私はいくつかの封印魔術や拘束魔術を思い浮かべたが、一つの言葉が引っかかり、なんとか飲み込む。
「あの小僧?」
「……」
「もしかして」
今日起きたこと、そしていま聞いたことから導かれる答えは一つだ。彼女の学園生活を覗き見るのは気が引けて、有事の際以外に干渉するのはやめておこうと自制していたが、どうやら事は少しずつ起こっていたらしい。
私の視線に、彼はそれ以上の説明をしなかった。彼のプライドにも関わることだ。口にしたくもないのだろう。仇と同じ町にいながら、この王が大人しくしていることこそが奇跡と思えば、今夜程度の騒動で済むなどまだ良い方なのかもしれない。そう納得しかけたところで、首を振った。
歴史として見ればそうだ。だが私はその一粒の手を今夜握っていたのだ。気を抜けばすぐに俯瞰する心を、人に寄せ続けなければいけない。何より彼女の心に寄りそっていたいと、私自身が思っているのだ。
「彼女が信じられないかい」
「信じるだと?」
「小さな心でいつも君を想っている。だが君が信じないと言うなら……彼女だっていつまでも想う義理はない」
「元から我に義理などあるまい」
「本当だね。それなのにずっと好きでいるなんて不思議だ」
「……何が言いたい?」
「さあ。私は人の心に疎いからね。それに残念ながら当事者じゃない」
「それにしてはよく口が回ることだな」
王様が本気で名前の不貞を疑っているとは、私にはどうしても思えない。それならなぜそこまで激昂するのか。その心情がいまいちわからないのは、本当のことだ。私は彼女を愛おしく思うが、彼女に激しい嫉妬をもよおしたりはしない。かわいさ余って憎く思うほどの複雑な感情を、実感できないのだ。
「そもそも、彼女は君と衛宮士郎の因縁を知っているのかい」
「知るわけがなかろう。言うつもりもない」
「……自らの理不尽さを認めてなお、開き直るのは王様の悪い癖だよ」
「なに、図太い女だ。また懲りもせず刃向かってこようよ」
「それはどうかな……」
気に入った者をやたらと試すのはいつの時代、どこの国の王も同じだ。だが大体の暴君は力任せで、その場任せだ。試した末に壊れたところで責任をとることは稀である。
「彼女は傷ついている」
「そうか」
「今は眠っているけれど、君にもらった宝石を手離そうとしない。鈍くなった体を丸めて、壊れてしまったと泣いていたよ」
「……」
「泣いていると思ったんだ。でも彼女の頬は濡れていなかった」
私は自分の手のひらを見て、彼女の頬の丸さを思い出す。やわくつるりとして温かい、女の頬だ。
「彼女の愛は健やかだ。王様も知っているだろう」
心を守るため、泣いて、怒って、笑う子だ。剣を向けられたその時だって、彼女は対話を諦めなかった。
「それを壊そうというなら、私も手段を選ばない」
「……ほう。我を相手に何をする?」
「王様と争うほど無謀ではないよ。だが彼女を救うことはできる。私は魔術師だからね」
そのやりとりを最後に黙ってしまった王様だって、彼女をいつになく、決定的に傷つけたことくらいわかっているのだ。そうでなければ私の行動を見逃したりはしない。傷つけ、壊しかけ、とっさに距離をとったのだとしたら、次は修復のため歩み寄る他ないだろう。
王様の顔が浮かないのは、罪悪感からだろうか。どうか私程度、もしくはそれ以上に人の心をもっていることを願いながら、私は談話室を後にする。眉を寄せる彼の顔は私よりも人らしい。本来、情緒豊かな男なのだ。せいぜい思い悩めばいい。そして失敗したならば、そのときはイギリス中を敵に回してでも、私が彼女を守ってあげよう。