extra 9


こじんまりとした居心地のいい部屋だ。私の暮らしていた冬木のアパートと広さはそう変わらない。使い込まれたキッチン用品や、掃除の行き届いた部屋の隅などから、住んでいる人間のマメさが窺える。リビングの窓からは傾いた西日が差し込んで、ニスの効いた床板を飴色に照らした。
「一緒に住んでたんだ」
 驚いた私は、そう言って二人の顔を交互に見る。
 凛の家に招かれ、三人でドアをくぐり、上着を脱いだ士郎くんがごく当たり前の顔でお茶を出したところでようやく、私はその事実に気づいた。
「あら、言ってなかったっけ」
 凛はこざっぱりと返すと、士郎くんのいれたお茶をおいしそうに口に含む。
「……同棲かあ」
 この若さで日本から飛び出し、魔術師を志しながら自活する二人のことを、素直に凄いと思った。自らの道を選び、共に生きる相手を選び、こうして堅実に暮らしている。そこにある信念を私が知ることはできないけれど、地に足のついた彼らの歩みからは確かな覚悟が感じられた。
 まじまじと顔を覗かれ気恥ずかしさを覚えたのか、士郎くんは少しだけ頬を染め首を掻く。
「遠坂は朝に弱いし、俺は言葉の心配もあるから」
「あら、士郎はそんな理由で私と暮らしてるの?」
 すかさずつっこむ凛の目はやはり猫のようだ。マグカップを揺らしながら、いたずらに恋人の横顔を見ている。
「ま、いいわ。士郎の料理が上手いことは私だってよく知るところだし、最高のルームメイトといえばそうよね」
「と、遠坂といるのは利害とかそういうことじゃなくて」
 士郎くんはあわてながら、けれどしっかりとした声で主張する。ありふれた青臭さの中に、歳不相応の達観を含む、彼独特の不思議な声だ。出会ったばかりの頃は気付かなかったが、知れば知るほど、凛が彼の隣を選んだ理由がわかる。
「単純に……俺が一緒にいたいから」
 私は気付けば胸元の石に触れていた。硬いルビーの感触がする。
 利害でなく、損得でもなく、求めるのは互いの存在そのもの。それは硬質で純粋で、宝石のように貴重な感情だと思う。彼のいれてくれたお茶が温かく喉に染みていく。

   *

 初めて家に招かれてからひと月。
 私は定期的に彼らを訪ねるようになり、その度に手作りのディナーをごちそうになった。士郎くんの作る料理は本当においしく、凛はなんでもよく知っているため、学園のことや魔術のこと、イギリスのファッション事情からロンドンのおすすめ市場まで、たわいなく話し合っているうちに、いつもとっぷりと夜が更けてしまう。

 その日も彼特製のビーフシチューをごちそうになり、食後にはデパートで買ったプティングを食べ、家に戻ったのは十時を過ぎた頃だった。
 階段を上り自室のドアを開けると、リビングのソファーに座っているギルガメッシュ王の姿が見えた。彼はゆらゆらとワイングラスを揺らしながら退屈そうに脚を組んでいる。その姿勢や、首の角度、視線の鋭さなどからなんとなく彼の機嫌がうかがえた。理由はわからないが決して良くはない。苛立ったライオンが神経質に尾を揺らすように、組んだ脚先をぶらつかせている。
 私は一言「ただいま戻りました」と声をかけてから、触らぬ神に祟りなしと、寝室のドアに手をかけた。しかしドアノブを回しきるその前に背後から名を呼ばれ、振り返る。
「座れ」
 この声に逆らえる人間がいるだろうか。言葉通り向かいの椅子に座るが、どうやら彼の意図にはそぐわなかったらしい。顎で隣を指し示されるものの、私は気付かないふりをして問いかけた。あまり近づきたい気分ではないのだ。
「なんでしょう」
「なんだ。不満があるなら言え」
「不満……?」
 これは一体何の時間なのだろう。尋問のような雰囲気に耐えかねて立ち上がる。彼から発せられる無遠慮な魔力が、通じてもいない魔術回路をつたうようで居心地が悪い。大体、いま不満があるように見えるのは王様の方だ。私は自分の内心から目を逸らしながら、うろうろと視線をさまよわせた。
「近頃は帰りが遅いな。男の家に上がり込む癖でもついたか」
 急に具体性をもった彼の言葉に、ぴくりと肩が揺れる。私が道端で王様を目撃したように、彼もどこかで私を見たのだろうか。
「違う、士郎くんたちとは」
 あらぬ誤解を受けているのではという不安から、とっさにそう口にした。
 その発言のどこに落ち度があったのか、私にはわからなかった。けれどすぐさま、圧倒的な後悔が襲う。
 空気の流れがおかしい。彼の発する魔力が部屋の中に立ち込めて、酸素がどこかへ押しやられているようだ。息が浅くなり、冷や汗がにじんだ。私は日々、彼を畏れ敬いながらも、結局のところ侮っていたのだと気付く。出会ったあの日以来、明確な命の危機を感じたことはない。理不尽を通されても、暴虐を尽くされても、殺されることだけはないだろうという確信があった。マスターをやめた今でもその驕りは続いている。どころか、いつの間にか彼からの特別な愛情を求めて止まないまでになっていた。
「シロウだと?」
 けれど再び、思い知る。この男は心持ち次第で私の首を刎ねる。愛着がないからではない。たとえ愛していたって、そんなことは殺さない理由にならないのだ。殺意と以外、言い表しようのないものを指の先まで纏いながら、王様は瞳孔を細めている。
「そういうことか」
 何を視ているのかは知らない。いますぐ逃げ出してしまいたいのに、蛇のような目に捕らえられ動くことができない。
「どこまでも舐めた小僧だ」
 彼の声は静かだ。けれどいつにない激情が腹の底で煮えていることはわかった。高揚した彼の目は、熱された炉心のように赤い光を帯びている。
「あの男に関わるな」
「彼は……私の学友です」
「肯定以外の返事を誰が許した?」
 立ち上がった王様が、一歩一歩と私に近づく。
「あれは我がいずれ殺す」
「ころす……?」
「当然だ。すぐにでも良いが、どうにも間が悪い」
 日本でのことを話したがらない彼らにまつわる、いくつかの噂。そのどれかが真実なのだとしたら、この王と因縁があってもおかしくはない。
「彼らと、日本で」
「貴様には関わりなきことだ。質問は許さぬ」
「でも」
「言葉の意味がわからぬか? 過去のことなど知る必要はない。我に所有される身でありながら、下賤な男に媚びるなと、そう言っている」
「……」
「返事はどうした」
 私の問いを遮って、王様は一方的にそう言った。聞くことも知ることも許さず、ただ王の命令に従えと言う。王様の欲を解消する都合のいい道具として、何も知らないまま所有されろと、そう言っているのだ。
 指先が震えるのを感じる。先ほど見ないふりをした自分の心が、王様への不満が、喉元まで溢れてついには口からこぼれ落ちる。
「王様だって、私の知らない女の人と!」
 惨めになるから決して言うまいと思っていたことだ。それにこのタイミングで言ってしまえば、まるで自らの不貞を認めているように聞こえるかもしれない。それでも、もう止められなかった。
「……我に許されることが貴様にも許されると思うなと、言ったはずだが」
 案の定、王様の怒気はさらに増した。私はとっさに後ろを向いて、足を踏み出す。大声を出したことで四肢にまともな感覚が戻り、防衛本能に突き動かされたのだ。
「逃げるな」
 しかしそれも一瞬の抵抗だった。首に鋭い衝撃が走り、後ろからネックレスを掴まれたのだとわかった。とっさに動きを止めるも、引く手の力は弱まらない。
「首輪も意味を成さんな」
 ぶつりと音がして、血の気が引く。振り向いたときには切れた鎖が王様の手元で揺れていた。ちぎれた拍子に食い込んだ首筋から、鎖骨へ血が垂れていくのがわかる。けれどそんなことはどうでもいい。目の前で起きたことに比べれば、肌の痛みなんて無いようなものだ。
「返し……」
 王様はゴミでも放るようにぞんざいにネックレスを床へ捨て、今度は直接、私の首を掴む。
「なんで」
「こちらを見ろ」
「やだ、返して」
「我がやったものだろう」
「でも、私のものです。返して! 返してえ……!」
「ごちゃごちゃと物を申すな! 貴様は黙って我に使われていろ!」
 途端、ぷつんと何かが切れたように体の感覚がなくなった。
 床に押し倒され上に乗られても、なんだか自分の体ではないようだ。快楽どころか傷の痛みすら感じられず、犯されているのに下半身がぼんやりと重苦しいだけで、抵抗感すら示せない。王様はちっと舌打ちをして、こちらを見下ろした。
「何だこの間から、つまらぬ体に成り下がりおって……貴様のとりえは感度の良さだけであろうが」
 彼はわざと私を傷つけようとしている。私はその悪意を受け止めてなるものかと、顔を背け心を守る。けれどそれも逆効果だったようだ。
「何が不満か……! これだから、女の愛などくだらぬ!」
「……」
「体が心を映すとはよく言ったものだ。この我に恥知らずな愛を告げたその口で、今度は誰の名を呼ぶ?」
 受けている仕打ちも、されている誤解も、すべて遠い世界のことに思える。否定する気も起きず、私はただ天井を見た。
「……人形を抱くようでつまらんな。この穴、締めぬというならこちらから絞めてやろう」
 王様の長い指が気管と動脈を強く圧迫する。痛みはなくとも苦しさはあった。王様は私を壊そうとしているのかもしれない。私は無意識に、打ち捨てられたネックレスの方へ手を伸ばしていた。私のお守り、貴重な石。赤いルビーと金の鎖がちぎれてそこに捨てられている。もう──いらないのだろうか。
 狭まる視界の真ん中に、美しい体躯が映る。
 霊子体にあるはずのない古傷が、右腕の付け根に浮き出ているのが見えた気がした。


2018_08_05
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