赤と金の輝きが胸にしみるようだ。
「それ、最近よくつけてるわね」
彼女は私の胸元を見てそう言った。
「ああ、うん」
「誰かにもらったの?」
猫のように細められた凛の瞳孔が目の前で揺れる。すらりと長い彼女の首は飾り気がないが、遠坂凛という女性そのものがまるで宝石のように光っているため、味気なさを感じさせない。
「そう。大事なものなんだ」
「ふーん。名前の恋人ってどんな人なの」
はっきりと肯定した私に興味深げな目を向け、凛は尋ねた。以前にも答えあぐねたことがあるが、王様は私の恋人ではない。そもそも古代の王に一人の女性と交際をするという概念はないだろうし、もっと言えば女を、人間を、一個体として特別視することすら稀なのだと思う。
凛の率直な疑問に、近頃考えまいとしていた諸々の不安があふれ出すのを感じた。
たとえ恋愛が成立しなくとも、積み重ねた信頼ならあるはずだ。他の人間とは違う愛着を持ってくれていると信じたい。共に暮らし、出かけ、いろいろなものを見聞きし、ビールを飲み、美味しいご飯を食べた時間はたしかに二人だけのものなのだ。
けれど──膨大な時の中に在る彼にとって、それがとるにたらない、私が思うよりもずっと瑣末な質量であったらと思うと、怖くなる。彼にとっての私が一人の人間ではなく、ただそこにある道具のようなものだとしたら、それはいくらでも替えの効くものだ。
利害の一致からはじまり、彼の生活に必要な小間使いとして傍にいたけれど、役割以上の愛情をその口から聞いたことはない。共に過ごした時間を信じたい。そう思う気持ちと、同じ機能を果たすのなら私じゃなくとも一向にかまわないのだろうという失望が、交互に胸を満たす。
「名前……名前? 大丈夫?」
「……うん」
だからこそ、このネックレスを貰ったことが本当に嬉しかったのだ。
彼が初めて私にくれた、私のためのプレゼントだ。これをつけている限り、私の固有性は保証される。そんな気がして安心した。
「王様」
「え?」
「王様みたいな人」
赤い石に触りながら言うと、凛は眉間にしわを寄せたあと「それって大丈夫なの?」と聞いた。大丈夫か大丈夫でないかで言えば、確実に後者だ。私はそのうち、大きすぎる渇望に押し潰されてしまうのかもしれない。
*
見たくないものに限って、目にとまってしまうのは何故だろう。怖いもの見たさとか、苦手すぎて目で追ってしまうとか、そういう類の話ではない。単純に運が悪いのだと思う。
フラットハウスの玄関先にいる人物が、王様その人だと気付くのに時間がかかったのは、肩を並べた二人の男女があまりにもお似合いだったからだ。なんの違和感もなく、彼らはロンドンの町並みに馴染んでいる。女性の方は見かけたことがないが、綺麗なブロンドを一まとめにして華奢な肩に靡かせていた。まるで映画のワンシーンのようだ。王様は流暢な英語で一言二言会話をすると、彼女と別れ家へと帰っていく。
私は彼女の姿が路地の先に消えたのを見届けてから、ようやく我に返り、後に続いた。階段を上ると、ちょうど私の部屋に入っていく王様の姿が見えた。私の体はみるみる重くなり、このまま談話室にとどまって夜まで時間をつぶそうかと迷う。
けれど今日は疲れているし、軽食を済ませさっさと寝てしまいたい。そう決心して自室へ踏み入ると、私の気配になどとうに気付いていたのか、王様は「もたもたするな」とキッチンを見た。あいにく今日は料理をしている気力がない。私は食料庫からできあいのパスタソースをとりだすと、茹でたマカロニにかけてサクサクと混ぜた。
「食べてきたのかと思った」
「知らんのか。我が食べ物を口にするのはこの部屋だけだ」
そういえば、私といると癖でお腹がすくのだと言っていた。週末にフランスで調達してきたらしいビンテージもののワインを開けながら、王様は呑気に脚を組んでいる。
「……デートだったんじゃないんですか」
「ふはは、笑わせるな。そんなものではない。が……まあ悪くはなかった。金髪碧眼は我の趣味だ」
処女が好きだとか、碧い目が良いだとか、聞いてもいない自分の好みを並べ連ねるのはこの人の悪癖だ。以前にもこんなことがあったと思い返しながらチーズを削っているうち、マカロニもソースもすっかり白く埋もれてしまったけれど、まあ構うまいとレンジにかける。出来上がったラザニアはふつふつと音を立て、暴力的なまでのカロリーを主張していた。誤魔化すように乾燥バジルで緑を添え、小皿に取り分ける。
ぞんざいに王様の前に置くと、彼はこれが人間の食い物か、というふうに眉を寄せたけれど、ないより良いと思ったのか少しずつ摘みはじめた。塩加減と衛生面に気を使えば、意外となんでも食べてくれるのだ。私はなんだか食欲がなかったので、昼間に残したサンドイッチを鞄から取り出してもそもそと食べた。勧められたワインを断り、シャワーを浴びる。
ほろ酔いが心地良いのか、王様は風呂上がりの私の腕を引き寄せると、くんくんと肌の匂いを嗅ぎながら服を剥いできた。カウチの上でおり重なりながら、戯れに肌を吸う王様の唇を受け止める。英霊の装束でなく、若者の身なりをしている王様に迫られるのはいつでも少し心臓に悪い。対等な男女だと、うっかり思い違いをしそうになるのだ。自らの服を脱ぎ捨てた王様に抱きすくめられ、息が乱れる。王様の肌を感じるのは好きなはずなのに、なぜか今日は体の表面にうっすらと膜が張ったようで感覚が鈍い。王様は私の中を指でいじりながら、眉を寄せた。
「なんだ、反応が悪いな」
落ち着きなく深呼吸をくり返しながら、私は頷く。
「ふん、贅沢者め」
嘲笑うように喉を鳴らすと、彼は無造作に唇を合わせ舌を入れてきた。ねぶるようなキスにようやく体の奥がほぐれだす。
それでも私は必死だった。王様に見限られないよう、飽きられないよう、必死で彼の動きを受け止めるうちに、自分の快楽はますます後回しになる。目の前の男のことだけ考えたいと思うほど、彼の横にいた綺麗な女性が脳裏に浮かぶ。気付けば行為は終わっていて、彼が満足したのかそうでないのかもよくわからなかった。精液を出された感触があるため、最低限はこなせたのだと思う。
「体調管理はきちんとしろ」
「……はい」
「己の身体のメンテナンスを怠るな」
王様はそう言って、裸のまま残ったワインに口をつけた。
「王様にとって、女の体は道具ですか」
「道具、か。ふむ」
悪びれず首を傾げながら、彼は事後の晩酌を愉しんでいる。汗ばんだ襟足も隆起する筋肉も、目をみはるほど美しい。美しさとは毒なのだと、私は急に実感する。
「女も道具も、結局は相性だ。貴様は使い勝手がいいからな」
その言葉に、自分が傷ついたのかすらもはやよくわからなかった。聞いた以上、反応を見せなければと思った私はもう一度小さく頷いてベッドへ倒れこむ。泣きたいと思う前に目を閉じて、ぎゅっと体を丸めた。すべての感覚を遮断して休みたい。そう思うほどに体は鈍く膜を張り、肌に立てた爪の痛みすら遠く、薄く、ぼやけていく。