熱は引いてきたものの、朝方はまだしんどそうにしていた。いつも仰向けで寝る王様が、うつ伏せ、体を丸めているのだから弱っている証拠だろう。サーヴァントであっても体の解毒機能というものは人とそう変わらないようで、びっしょりと汗をかき体温調節をしている。
「王様」
アラームの音に合わせ薄く目を開けた王様は、昨夜から変わらないうつろな眼差しでこちらを見た。
「私、出かけますけど、今日は一日寝ていてくださいね」
膜を張るように潤んだ瞳が、早朝の光を受けじりじりと輝いている。胸が痛くなるほど美しく弱り果てたこの男を置いて、部屋を出ることは躊躇われる。けれど付き添ったところで私にできることは限られるし、自分の本業をおろそかにするわけにはいかない。王様はわずかな沈黙のあと私の腕を離し、そのまま目を閉じた。引き止めるつもりはないらしい。ほっとして布団をかけ直す。
王様がいまのマスターである父に弱みを見せるとは思えないが、何かあれば原因を作った二人がどうにかしてくれるだろう。一棟のフラットハウスに随分な人材が集まったものだと今さら感心しながら、カレッジへ向かった。実技はまだかと王様は聞くが、私にとってはプライベートこそが実技である。
*
「本当にもう大丈夫なんですか?」
「問題ない」
時計塔から帰ると、王様は今朝とはうってかわり、いつも通りの堂々とした態度でカウチにかけていた。また強がっているのでは、と心配になり手を伸ばす。手のひらが額に触れたところでぎろりと睨まれ、軽率に王の尊顔に触れたことを悔いた。
「貴様、我が本調子なら腕を斬り落としておるぞ」
「う……すみません」
昨夜も頬に触れたが、咎められなかったのは弱っていたからだろうか。けれど避けようと思えばいまだって避けられたはずだ。そこまで嫌でもないのだろうと都合よく解釈する。ともあれ、熱は本当に下がっているようで安心した。言葉通り、まだ全快ではないようだが。
「何か食べます?」
「よい」
「水分は」
「とった。いちいち構うな」
構うなとは言うけれど、本当に構われたくないのなら私の部屋になんていないだろう。風邪の治りがけになんとなく人恋しくなるのは、きっとサーヴァントも同じなのだ。
「そういえば……」
王様はしばらくのあいだ無愛想にしたかと思えば、唐突に口を開きこちらを見た。
「貴様には褒美をとらせると言ったきり、何もやっていなかったな」
言われて思い出すのは、初めて王様の宝物庫を見たときのことだ。たしかにあのとき王様は、うまくやれば相応の褒美をとらせると言った。目まぐるしい日々の中ですっかり有耶無耶になっていたけれど、約束はまだ有効だったようだ。
「何かくれるんですか?」
「小間使いが王に仕えるのは当然のことといえ、報酬を惜しんでは王の名がすたるというもの。よいぞ、何が欲しい。何でも申せ」
一晩寝込んだことの反動か、ただの気まぐれか、王様はいかにも王様然とした態度でそんなことを言う。何か突拍子もないことを言い出すとき、だいたいこの人は楽しげにしているが、要するにただ暇で大言を吐きたい気分なのかもしれない。
「な、何でもですか?」
「我の蔵をみくびるなよ。貴様がその小さな脳みそで思い浮かべる程度の物、ことごとく網羅しておるわ」
とはいっても、突然何でもと言われると戸惑ってしまうのが庶民というものだ。頭の回転を速くしたいとか、もう少しメリハリのある体つきになりたいとか、そんな漠然とした望みはあるけれど、私はどうやら物欲というものをあまり持ち合わせていないらしい。
「なんだ貴様。欲がないのか?」
「欲……」
「まことつまらぬ人間よ。欲のない者はどこへも行けぬぞ」
「あ、あります。あるんですが」
一つ思い浮かぶのは、まさに王様に求めるべきことだった。彼からしか貰えないそれを欲する気持ちはあるが、いくらなんでも望みすぎではという遠慮もある。
「でもさすがに……王様、怒るんじゃないかと」
「みくびるなと言っている。この世の財を集め尽くした我が、何でも下賜してやると言っているのだ。おかしな遠慮などは無粋を通り越し不敬であろうが!」
否、遠慮というよりも羞恥なのだと思う。心の底から欲しがっているものほど、いざ口にするとなると気恥ずかしさが勝るものだ。
「で」
「で?」
「でえ……」
「ええい、はっきりせい!」
「う、デート」
「は?」
「その……一日どこかで、王様と」
目をぎゅっとつむり、喉から声をしぼりだす。
「デートしたいです」
本人相手に、面と向かって頼むには勇気のいる一言だ。ただでさえ奥手な自覚はある。何でもやるとは言うものの、いち小間使いの身で王様を誘うなんて大それているかもしれない。彼は私の好意を知っているけれど、結局そのことに言及するつもりはないようだ。恐れ多いし、気恥ずかしいし、それに何よりも、断られたらどうしようというありふれた不安がわきあがり、私の指はわなわなと震えた。
「雑種……貴様」
けれど王様は身を硬くする私とは裏腹に、わずかな沈黙の後げんなりと脱力した。額に手をあて、さも哀れというふうに首を振っている。
「極貧娘の発想力というのはこうまで乏しいものか……せっかく何でもやると言っているのに、行楽ごときのことでへどもどと躊躇いおって、あまりのケチ臭さに泣けてくるぞ。てっきり国を一つ寄越せとでも言うのかと身構えたわ」
溜息をつきながら、王様は憐憫の眼差しを向けてくる。なにからなにまで余計なお世話だが、どうやら不敬と叱られることはないようだ。
「大体連れ立ってどこかへ出向くなぞ、わざわざ言い出さずとも冬木でいくらでもしていたであろうに」
「そりゃ、散歩や買い出しはしてましたけど、予定を立ててどこかに遊びに行ったことはないし、そういうのってやっぱり特別というか……」
もごもごと口ごもる私を叱責せず、王様もまた珍しく視線をさまよわせた。「ふむ」と腕を組み何か思案をめぐらせている。
「まあ、王の身体と時間を欲すると考えればこの上なく大胆とも言えような。……ええい、なんという贅沢者だ貴様は、身の程を弁えよ!」
考えた末に至ったのはそのような結論らしく、彼は急に声を張りあげ怖い顔をした。いつもながら、この人の情緒の激しさには驚かされる。
「ええ……王様が何でもって言ったんじゃないですか」
「何でもとは言ったが我自身は入らん! 考えてみれば失礼千万だ!」
「く、口だけ! 口だけ英雄王!」
「なにぃ」
そんなことを言われても、こうなったら私だってあとに引けない。羞恥心をごまかすように王様を責める。意地もあるがデートをしたいのだって本心だ。私はこの、世にも稀な関係である古代の王様と、ありふれた交流をしてときめいたり、笑ったり、そういうことをしてみたいのだ。国が変わっても契約が切れても、その思いが変わることはない。
「フン、ではせいぜい王を満足させるデートプランとやらを練ることだな」
果たし合いのようなセリフを吐いて退場した王様は、やはり相当に不本意のようだった。そんなに私とのデートは嫌なのだろうか。純粋に傷つくし、悲しくなる。私だけが楽しいのでは意味がないとしょげていると、いつから、どこから様子を見ていたのか、入れ替わるように花の魔術師が姿を現した。堪え切れないというふうに含み笑いをしながら「病み上がりの王の相手をご苦労さま」なんて言っている。
「笑いごとじゃないよ」
「まったくだ。いやあ大変なことになったね」
マーリンは急にきりりと顔を引き締め、顎に指を添えた。楽しんでいることは明らかだが、私は素直に助言を求める。
「私だってまだ、ロンドンのことなんて全然知らないのに……誘っておいて生半可なプラン立てたら、きっと王様許してくれないよ」
「彼の求めるものに応えようとしたら、それこそ国家レベルの予算が必要になる。ここは気負わず、君なりの一日を提案するしかないんじゃないかな」
「私なりの」
私がしたいのはちょっとした買い食いとか、散策とか、その程度のものだ。まだ住み慣れないこの町は、歩いているだけで発見がある。老舗のカフェ、見たことのない果物、歴史ある建造物──日本を出たことのなかった私にとっては、どれもが魔術と変わらない新鮮さに満ちていた。そんな町並みを博識な王様と巡れば、きっと楽しい一日になるだろう。
「あ、あと」
「うん?」
「……手」
私は先ほど王様の額に触れた右手を眺めながら、つい独り言のように願望をもらす。
「手、つなぎたいなあ」
「……素朴な願い事はけっこうだが、あまり王様の前でいじらしいことを言いすぎるとデートどころではなくなるよ」
「ええ、ダメかな、手」
連行するように腕を引かれることはあっても、手のひらを重ねて歩いたことはない。私は思っている以上に王様の体が好きなようだ。あの手に触れて、それ以上は何もなく、ただじっと存在を感じることができたら幸せだろうと思う。
小学生のような願望を吐露する私を、マーリンは神妙に見つめ黙り込んだ。呆れているのかもしれない。妄想で火照った顔をぱたぱたとあおぎながら、携帯電話を開く。デートコースというよりも、遠足のように健全なプランになりそうだと思った。