人であるとはどういうことか。人でないとはどういうことか。何であろうと心は通い、体は交わり、またそれらは離れていく。時とともに私たちは別の場所へ流される。
それを不幸と思わずに、私はただ、この輝かしい日々を胸に刻むのだ。傷のように。光のように。
二年ぶりの実父と、二月ぶりの英霊を並べて考えるのはおかしいことかもしれない。
けれど私は同様に胸を高鳴らせながら、フラットハウスのロビーに立ち竦んでいた。定刻から二時間が経っても人の気配は一向にせず、送り状の住所を何度も確認する。ただでさえ異国の区画は歩き慣れない。メールの返信もなく、このまま路頭に迷うのではと不安になってきた頃、聞こえてきたのはエントランスに備え付けられた黒電話の呼鈴だった。
「……もしもし」
一か八か、受話器をとればいつも通り飄々とした父の声が聞こえてくる。
『すまないがもう少し待っていてくれ。携帯電話が壊れてしまってね』
携帯電話が壊れたことよりも、時間に遅れていることを謝るべきだと思ったが、ひとまずのところ安心した私はそのままぼんやりと暇を潰した。むくんだ脚を休ませようと、螺旋階段に座り込めば、父の帰りを寝ずに待った幼い頃の自分とシンクロし、ますます心もとない気持ちになる。妙な感覚だ。日本離れした瀟洒な屋敷で育ったこともあり、思い出と目の前の光景が地続きのように混ざりだす。リュックサックに顎を乗せているうち、うとうとと眠くなり、少しのあいだ夢を見た。古い洋館。重厚な内装。中庭には青い芝生が広がっている。
「そんなところで寝てはいけない」
かけられた声に顔を上げると、昔から印象の変わらない父の精悍な顔がそこにあった。
「あ……久しぶり、です」
「遅れてすまなかった。中へ入ってくれ」
私の荷物を持ち階段を上っていく父の後ろを、夢うつつについていく。高級感のある集合住宅は一つ一つの部屋が大きく、父の私室には大きな書斎と、飾り棚に囲まれた仕事部屋があった。古い背表紙や、用途のわからない宝飾品のようなものが所狭しと並んでいる。思えば実家にもこれらの片鱗はあった。不思議な形の置物や骨董は私の目にはそら怖く映り、父の部屋へ夜に行くのが苦手だった。
「長旅だったろう」
「寝ちゃったから、案外あっという間に」
どこでも眠れるのは昔からの特技だ。十二時間のフライトもそう苦ではない。
ここへ来ようと決めた日から慌ただしく旅支度を整えたけれど、仕事だけはすぐに辞めることが難しく、身一つで日本を出るまでに二ヶ月を要した。その場の勢いで決断をすることの多い私にとって、二ヶ月の間をおくことはかえって良い機会だったのかもしれない。時間が気持ちを冷ますことはなく、むしろ日に日に決意は固くなった。よく考え、その上で会いに来たのだ。もうとっさの判断ミスであると、いままでのように言い訳をすることはできない。
「そうか。一応空き部屋はあるが、まずは荷物を置いて……いやその前に、どこかで夕飯を」
珍しく歯切れの悪い父も、どうやら緊張しているらしい。いささか複雑な事情を抱えた私たち父娘は、ぎこちなく視線を泳がせながら、ひとまず近場のレストランへと繰り出した。
ロンドンの町並みは映画やドラマで見るよりもいくらかそっけなく、代わりに、地に足のついた人々の営みが感じられた。冬木とはまた違う静けさがあり、川の向こうでひっそりと光る時計塔が、歴史の片鱗を夜空に少しずつ溶かしているようだった。魔術師としての研鑽を積んでいない私ですら、強大な魔力の気配のようなものが感じとれる。町全体の持つ霊脈のようなものだろうか。
眺めているうちに離れていた父の背を慌てて追い、小洒落たレストランのドアを押す。
私たちは当たり障りのない会話をしながら三皿ほどをたいらげて、グラスワインを一杯飲み、食後に小さなケーキを食べた。私は父の言葉に相槌をうちながらも、その手の紋様が自分のものとは少し違うことに気を取られたりした。聞きたいことはたくさんあるのに、面と向かうと難しい。いくつかのハードルを乗り越えたつもりだったが、人と人との関係というものはそう簡単には変わらないらしい。
そんなふうにしてフラットルームへ戻ると、もう遅いからと、寝るように促された。しかしここで躊躇っていては海を越え会いに来た意味がない。私室へ向かう父の背に「お父さん」と声をかけようと、口を半分開けたときだった。
「貴様ら親娘は、何をまごまごと煮え切らぬ」
突如聞こえたその声に、驚いた私は魔術もなしに五センチほど浮いた。振り向けばいつになく輝かしい古代の王がそこにおり、今度は数歩、後ろへとよろめく。
「足元も覚束ぬとは、会わぬうちに雑種風情に磨きをかけたか」
「お、王様」
呆れたように細められた目は、確かに彼のものだ。父はなんていうこともないというふうに首を傾けると、ネクタイをゆるめ息を吐いた。
「ギルガメッシュ、今日はもう寝ようと思うんだが。積もる話は明日にしよう」
「この娘との間に積もるものなどありはせぬわ。だが、貴様らは違うだろうに」
いつからそこに? その格好は? 聞きたいことは数あれど、まず目についた変化を口にしないわけにはいかない。私はふらふらと歩み寄ると、王様の体へ手を伸ばした。父へのあれこれはこうも口を重くするのに、王様のこととなると私はとたんに積極性が芽生えるようだ。
「ふん、そのような目をするな。父親の前だぞ。心身とも我を忘れられぬ気持ちはまあ、わからんでもないが、不用意に王へ向かって手を伸ばすなぞ、」
「王様、腕が」
彼の声もよく耳に入らないほど、私は驚いていた。組まれた腕にぺたりと触れて、確かめる。王様は言葉を遮られたことを不服そうにしていたけれど、私の情けない表情を見て、呆れが怒りを上回ったようだった。
「……何を泣くことがある」
「だって腕が、治ったんですね。よかった」
仕組みはわからないけれど、目に見える装束も、放つ雰囲気も、以前とは明らかに違っている。出会った日に一度見た彼の体の紋様は、くっきりと赤く浮き立って上半身を彩っている。裸体や甲冑に違和感を感じないのは、彼の人間味が以前よりも薄いからだ。
「受肉を解いた。今の我は霊子体だ」
「そうなんですか」
言葉の意味はわからないけれど、あのように痛々しく欠損した王様の腕が、元どおりに治っていることが嬉しかった。その上で彼を眺め、改めて思う。完全な王の姿はさぞ立派だろうと以前思ったが、受肉を解いたサーヴァントとしてのギルガメッシュ王はまさに雄々しく、美しい。髪の先まで魔力に満ちたこの姿は、私の元では見られなかったものだ。
「でも、今までどこにいたんですか」
「ずっとここにおったわ。まったく貴様らはうじうじと見るに堪えぬ」
「霊体化しているときは、基本的に人の目には見えないんだよ」
父の説明を受け、私はあからさまに動揺する。
「え、じゃあ私がご飯を食べてるときもそばにいたんですか」
「それどころか、階段で呑気に寝こけているときからおったわ。貴様は不用心が服を着て歩いているような阿呆だな」
それならどうして、もっと早く姿を顕してくれないのか。父も知っていたなら教えてくれればいいのにと思う。迂闊にさらしていた表情や言動を思い出し、今度は顔が熱くなった。
「ええと、その、お久しぶりです」
「ふ、相も変わらず貧相な女よ。して名字、貴様これをどうする気だ」
「……どうしても、今日のうちに話を進めたいのかい」
「先延ばしにしてどうする。名前、貴様とて何も質素な食事を楽しむためこの国へ来たわけではあるまい」
相変わらず忌憚なくものを言う男だが、本題に切り込んでくれることはありがたい。私は急な再会により引っ込んでしまった父への言葉を、もう一度練り直し、口にする。
「魔術を学びたくて来たんです。ロンドンならその方法があると思うんだけど……違う?」
「……ふむ」
父は解いたネクタイを首から抜き取り、ソファーへと腰掛けた。私も対面に座り、文字通り腰を据える。
「方法はある。可能でもある。だが推奨はしない」
「どうして? 中途半端に知ってしまった今、何もしないのはむしろ危険と思うのだけど」
「魔術というものは底知れぬものだ。名前、お前はまだ足の先を水面につけた程度だよ。充分に引き返せる」
「でも……」
「底のない井戸へ延々と身を沈める覚悟が、お前にあるのかい。自ら死に向かうような愚行だ」
「でもお父さんは死んでない」
「明日、死ぬかもしれない」
父の声から、それが脅しや冗談でないことは窺えた。たしかに今の私に、魔術というものの底の深さを想像することはできない。けれどわからないからこそ知りたくなる。覗き込んで、身を投じたくなるのだ。父だって、そうして今も身を沈め続ける途中なのではないか。
「私がお父さんを守れるかもしれない」
根拠はないが、可能性はある。本末転倒な返答をしながら拳を握ると、王様がふはは! と大きな笑い声をあげた。
「名字よ、貴様も止められぬことは気付いていよう。なにせ貴様の娘だぞ」
「むう」
「それに、不出来とはいえこの我のマスターをしていた者に向かい、水面に触れた程度とはよく言ってくれる。我を御せれば世界中どの英霊とて御せようよ。まあもちろん、我は一切御されてなぞやらなかったが」
何やら大笑いをしたまま謎の論理展開をしはじめたギルガメッシュ王が、ここまで心強く思えたのはいつぶりだろう。あと一息と、彼の勢いに乗ろうとしたところで思わぬ追い風を吹かせたのは、まさに対極といえる朗らかな声だった。
「私も王様と同意見だ。彼と私が同調することはきっとこの先、二千年は無い。聞く耳を持つに値すると思うけどね」
私はまたもや息が止まるほど驚いて、浅く掛けていたソファーから落ちそうになった。すぐ横に顕れた男の顔を見上げる前に、五感が郷愁で満たされる。花の香りが柔らかく漂い、自然と声が漏れた。
「キャスター」
三つの再会が私の人生の舵をきる。
その先にあるものが少し怖く、けれどたまらなく心躍る。
跳ねたつま先がとぷりと、水面に沈む。