episode 34
ひとりの人

忙しなく仕事をこなす最中に、手の甲から静かに令呪が消えたとき、私はそう驚かなかった。彼が特別な仕草を見せるのなら、そこにはそれだけの理由があるのだ。昨夜の行為はすべてが特別だった。片腕がないことを惜しむように、彼は全身で私を愛でた。王様なりの礼だったのかもしれない。もちろん私の好意に対してでなく、私の今までの行動に対してだ。
 家に帰ってもやはり彼の姿はなく、部屋はしんと静まり返っていた。
 目の前の光景より、何より、私の体がその事実を告げている。パスによる繋がりも、パス自体の存在も、もう感じられない。私の魔術回路はまた私だけのものとして、体の奥にひっそりと隠れてしまった。
 
 心に空いた大きな穴をどう埋めればいいかわからず、ただ目の前の日常に身を任せているうちに数日が経った。空の穴。聖杯の穴。心の穴。この世は埋まらない穴ばかりだ。わけもわからず町へ飛び出したあの夜のエネルギーを、今の私はどこへ向ければいいのだろう。
 未知への恐怖や世界への疑問が、あの晩、私を突き動かした。そうして送った密度の濃い月日は、過ぎてみれば心の穴をさらに広げただけのように思う。知ってしまった世界の入り口は、足を踏み入れたところで私を弾き出し、まるで何事もなかったように消えてしまった。あの晩と同じだ。
 すべてはよくできた夢だったのかもしれない。夢にうかされることには慣れている。
 それは鮮やかな夢想であり、また悪夢でもあった。恐ろしい思いをたくさんした。目覚めた今、私は確かに、少しほっとしている。
 癖で灯そうとした香油がどこにも見当たらないことに気づき、溜息をつく。そんなことを連日繰り返していた。香油を焚かずとも、もうキャスターも、黒い泥も、夢には現れない。令呪を身に宿すあいだのみ得られる、魔術師としての特権だったのかもしれない。
 なんだか疲れたと思い、目を閉じた。明日は午後から取引先へ赴いて企画の説明をしなければならない。自社へ戻ったら、報告と書類作りだ。定時を過ぎて遅くなっても文句を言う人はいない。気楽で、自由で、以前通りのことだ。
 働くことは嫌いではない。体を動かし、頭を使い、生きるためのお金を稼ぐ。その中で得る出会いや経験は、いつの時代も変わることのない一つの財産だろう。麦を育て、収穫し、高い太陽の下で汗を流していた頃から変わらないはずだ。
 私はいつの間にか白い土の上に立っていた。風にゆれる黄金の麦畑は彼の髪のようだ。初めてこの夢を見たときから、私はそれを懐かしく思っていた。青い空が石造りの町を丸く覆う。目の端には緑色の髪が靡いている。親しげな空気が心地よい。王様にも、心を許す人がいたのだ。
 見下ろした町角は人々で溢れていた。貪欲に生命のエネルギーを迸らせ、王国は今日も輝いている。王様の姿は見えない。世界を俯瞰する私は、そのことを不思議に思い、ようやく気付く。そうだ、これは他でもない彼の──。
 涙がこぼれる感触がして、私は目を開けた。
 視界がにじみ闇がゆれる。彼の目から見るウルクの国は美しかった。
 パスがなくとも、令呪がなくとも、それは私の魂にすでに染みているようだ。今さらなかったことにはできない。私はあのとき彼へ向けて、はっきりとそう告げたではないか。
 そう思った瞬間、携帯電話が鳴った気がして画面を見た。空耳だったのか、そこには何も表示されていない。けれど私の耳には、とある言葉がよみがえった。
 魔術になど頼らずとも、文明の利器を使えばよかろう。
 なぜ今まで思いつかなかったのだろう。ありふれた繋がりが、まだ手元には残っていた。
『……なんだ』
 数度のコールのあと無愛想に響いた声は、確かに王様のものだった。
「消えちゃったのかと」
『何ゆえ我が消えねばならん』
「だって令呪が」
『思いのほか術式が上手くいってな。以前より交渉をしていたのだが、ちょうどよい魔術師のあてが見つかった』
「魔術師のあて?」
『ふん、貴様と違い、それなりに使い物になる魔術師よ。聖杯を経由しないサーヴァントの召喚術を研究する、稀代の異端者だ。ろくな者ではないが、まあ都合がよい』
「そ、そんな危ない研究をする人がいるんですね……」
『まったくだ。ろくな自衛手段もなく我と契約をする阿呆など、世界にそう幾人もいまいよ。まあ 血は争えぬ≠ネ。名前』
 彼はそう言って少し笑うと、通話を切った。
 私はしばらくのあいだ呆然としてから、まず職場への言い訳を考えた。
 今度は半年では済まないだろうし、なにせ距離がある。潔く退職すれば、いくらか覚悟になるだろうか。あのとき踏ん切りのつかなかった選択が、いまは嘘のように簡単に思える。
 顔を洗ったら辞表を書き、メールを送り、ロンドン行きのチケットを手配しなければいけない。父から返事がくるより先に、すべてを済ませてしまうのだ。
 きっと止められるが、迷いはない。私はもう、留守番をする幼い子供ではないのだから。


2018_05_02 END
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