魔力を流せばすぐに治る、と王様が言ったとおり、一緒に寝るようになってから私の腕はみるみる回復した。あまりに早い治りに医者に診せるわけにもいかず、自己判断で完治としたことにはやや不安が残るけれど、類まれな再生能力をもつ女として学会に発表されても困るので仕方がない。
ちょうど仕事が立て込みはじめていたため、早い快気は嬉しかった。帰りが遅くなる日が続き、帰宅後もすぐに寝てしまうことが多く、王様との会話は減っていた。
そんな毎日に、思いもよらぬ方向から衝撃がはしる。
家へ帰ってみたら、見知らぬ女がベッドで寝ているという事態にみまわれる人間が、この世にどれだけいるというのか。浮気や不倫の体験談としてはよく聞く気もするが、実際に起こってみればこれはもはや恐怖体験である。玄関を入るなりシャワーの音が聞こえたため、寝室には誰もいないと踏んでいたのに、キャミソールを着た女性がむくりと背を起こしたため思わず叫び声をあげてしまった。
「あ……」
相手も同じくらい驚き、私を見ている。けれどすぐさま状況を察したのか、あわてた様子で床の服をかき集め、身に付けはじめた。そうして気づくのは、彼女がまだ──。
「紙切れを貰ってな」
風呂から上がり、つやつやとした様子でそんなことを言った王様は、悪びれもせずに顎でゴミ箱を指した。もう捨てたらしいそれに何が書いてあったのか、大体の予想はつく。
「どこで目にしたか知れぬがあの娘、この我にしばらく懸想していたそうだ。とんでもない身のほど知らずよな!」
悪びれない、というのは訂正だ。彼は大いに悪相をたたえ、愉しそうに笑っている。
「だがまあ、なかなか愛らしい顔付きをしていたゆえ、抱いてやったまで」
「だ、抱いたって……あの子まだ学生じゃないですか!」
私が一番驚いたのはそこだ。服装を見たところ、彼女は近くの私立校に通う女子学生である。制服を着込み、ぱたぱたと玄関を出て行った少女は、その首にくっきりと赤い跡を浮かせていた。あまりのことにめまいをもよおした私は、あとを追うこともできなかった。手紙を渡したということは連絡先の交換でもしたかったのだろう。それをこの男は、そこらの花を摘むように家へと連れ帰り、そのまま抱いてしまったと言う。
「関係はあるまい。何歳であろうと男を求め始めれば女だ。いやしかしなんだ、やはり処女はよいな」
「……犯罪は犯すなって言いましたよね」
「何を言う。拐かしたわけではないぞ」
この見目のいい男が町でどれだけ注目をされるかは知っているし、今までだって女遊びくらいしていたのかもしれない。この近辺を生活範囲としていれば、胸を焦がす少女の一人や二人、出てきてもおかしくはない。
「いつの世も、あのくらいの娘というのは進んで火傷をしたがるもの。自らの浅はかさを後悔する間も与えず、奪ってやるのが男の務めというものよ」
身勝手すぎる言い分に愕然とするが、この男の倫理観をいま糾弾したところで無意味なことはわかっている。フォローをしようにも私は彼女の保護者ではないし、彼女の火遊びをたしなめるような立場にはない。それはそれとして、私にもできる正当な主張が確実に一つあった。
「私の家に、勝手に女性を連れ込むのはやめて!」
声を荒げて言うと、彼は瞳孔を細め蛇のような目をした。
「冬木は身のほど知らずの女が集う地か?」
こちらを覗き見る王様はシャワーを浴びたばかりだというのに、知らない女性の気配がする気がしてたまらない拒絶感をもよおす。顔を背け、そのことを態度で示すと彼は許さないとばかりに私の顎を掴んだ。
「名前よ。貴様が我との関係に疑似恋愛を見出そうと、それは貴様の勝手だ。愛されていると誤解できるのは女の特権だからな」
その手をえりあしまで滑らせて、彼は撫でるよう髪を梳いた。
「よいぞ、申してみよ。何が気に食わぬ」
「……わたし、は」
言いたくない。この話題は続けたくない。首を振って会話を打ち切ろうとするも、当然のように彼は追い討ちをかけた。
「己の心に素直にならぬか。貴様の浅ましい本心を聞いてやろうというのだ」
私の肩口に唇を寄せ、王様は甘く囁く。なぜそんな残酷なことを言うのだろう。私は自分の心が、ともすれば体を犯されたときよりも激しく痛んでいることに気づきながら、どうしてもそれを認めることができなかった。
「……一人前に傷ついているのか? 貴様はついこの前まで我に怯え、憤っていたと思ったが」
怯えているし、憤っているし、傷ついている。愛していないとはっきり言われ、なおかつ愛おしげに私に触れようとする彼の性根に、私は心底傷ついている。その手つきが優しいほどにすべてが虚しくなるような、そんな呪いをかけ笑っている王様の悪辣さに、吐き気がするほど胸が痛んだ。
「おう、さま」
「なに、そう深くとるな。泣いている女を抱くのが好きなだけだ」
「ひどい……」
「そうだな。哀れな貴様は優しく抱いてやろう。我にもな、愛するふりくらいはできる」
征服欲の行き着くところは体でなく心の支配だ。そして彼が今しようとしているのは、私がもうずっと目を逸らし続けてきたことへの精算でもある。私は心を守りたい一心で彼の体を押しのけた。血の気が引き、顔が青ざめていくのを感じる。よろめいて壁に手をつくと、彼はそれ以上深追いはせず「つまらん」と言って背を向けた。
それから彼が明かりを消して眠りにつくまで、私は身動きができなかった。
深夜の静けさにようやく正気をとりもどし、シャワーを浴びてみるけれど、体を温めたところで心はすうすうと居場所をなくしている。
彼との和解のあと、このような展開に行き着くことにもっと早く気付くべきであったが、私は今日まで無意識に「今まで通り」を維持してしまった。
布団に入らず、眠る王様の背中をじっと見る。数時間前に見た光景がよみがえり胸が詰まる。誰にも触ってほしくない。誰にも触らせないでほしい。嘘のようにありふれた嫉妬心が胸を満たし、夢の中にも逃げられない。こんな気持ちは誰にも知られたくないものだ。自分ですら、気付きたくなかった。
「寝ておらぬのか」
いつの間に目を覚ましたのか、王様に問われ顔を上げたのは、カーテンの向こう側が薄く明るみはじめた頃だ。
「……貴様もあの愚かな娘のように、我の威光にあてられたか」
隈の浮いたひどい顔をしていると思う。恋に盲目なあの少女と、流され続けて今こうしている私とのあいだに、どれだけの違いがあるだろう。誤魔化している分なお悪い。私はもうとっくにこの人を──。
「慣れや愛着からくる擬似的な感情ならばよい。信頼も赦そう。だがまさか、本気で我に懸想しているわけではあるまいな」
嘲りから一転、戒めへと響きを変えたその声は、出会ったばかりの無機質さを思い出させた。一蹴されるどころか不敬だと裁かれるかもしれない。明け方の青い空気の中で、彼はうっすらと金色の光を纏っている。
高貴であり、清廉だ。同時に俗悪で、粗暴だった。
複雑に思える太古の英霊の、ありのままの実体をこの目で確かに見た気がして、とたんに、私の体からは自分でも驚くほどすんなりと力が抜けていった。思わず目尻も頬も、みっともなくゆるんでしまう。
「好きですよ。王様」
なにを取り繕うこともないと思った。隠したってもうばれている。それなら声に出して告げてしまった方が楽だ。
「単純なので、もう愛しいんです」
喉を通った息の束が、音になって部屋に響く。夕飯の献立を告げるときのような何気ない心持ちだった。私の言葉に彼は一瞬、とは言えないほど確かなあいだ、目を見開いた。赤い虹彩が、宝石のように光を蓄積させている。
「王様にとって、半年という時間が一瞬であることはわかります。でも私にとっては、自分の価値観をすべて塗り替えられるほど途方もなく、長い時間でした」
「……」
「そんなふうにして、心と体に染みついたものを、もう切り捨てることはできないんです。それを愛と言うのなら、私はあなたを愛してしまった」
愛という言葉を、今までの人生で使ったことはなかった。それ以外に言い表しようのない感情を、抱いたことがなかったのだ。
「王様が愛しいです。そばにいたいと思う」
「……軽はずみに言ってくれる」
「だって、目の前で王様が傷付きそうになっていたら、もうどうあっても放っておけません。愛ってそういうものでしょう。王様はどうですか」
私が殺されそうになったら、助けてくれますか。そう聞きたかったけれどなんだかしっくりこず、私は代わりの言葉を探した。私を殺すのは王様であってほしい。助けずとも見届けてほしい。すべて本心だけれど、どれもこれも嘘臭すぎる。
「そうは言うがな、貴様は初めて会ったときから我を放っておけなかったではないか」
言いよどんでいるうちに先を越され、そういえば、と思い返す。
「奇特な女よ。力もないのに手を差し伸べるなぞ」
「考えてみればそうですね。だったら、一目惚れってことにしておいてください」
「適当なことを」
「本当ですね」
泣けばいいのか笑えばいいのかわからず、結果、私は泣き笑いのようなしまりのない表情をしていたと思う。王様の顔が傾いて、唇を吸われる。その仕草があまりに優しげで涙が出た。
また、愛しているふりをしてくれているのだろうか。
けれど不思議と、今度は胸が痛まない。愛しさだけが次々に増して、目の端からこぼれていく。
王様は私を一度抱いて、そのまま深く眠ってしまった。
体がすべて蕩けるような一時だった。痺れた体の奥がいまだにじんじんと震えている。匂いを嗅ぐように私の肌に鼻先を寄せ、そのたびあちこちに小さく口付けた王様の吐息が、まだ体中に残っている。伏せられた瞼も、背を抱く腕も、しばらくは忘れられそうにない。
私も彼の隣でいつまでも微睡んでいたいけれど、あいにく今日も仕事がある。一眠りしたらベッドを出て、会社へと向かわなければならない。
あと十分。あと五分。一度失ったらもう二度と味わえないぬくもりである気がして、私はなかなか布団を出ることができなかった。彼の機嫌を損ねる前にアラームを切らなければいけない。そんなことすら貴重に思えて仕方がないのだ。