episode 32
しめった使命

結局のところ何も解決していないし、進展していないし、理解もしていない。私たちの関係は基本的に相互不理解のもと成り立っており、生き物として存在として、心底から分かり合うことはないのだと、それだけは確かに分かっていた。
 互いが互いをぎりぎりのラインで許容している。しかし大体のものを許容して流す私と、多くを排しわずかのみを内に招く王様とでは、その線の意味が違うのかもしれないと思う。
「お鍋、お醤油味でいいですか。お味噌もありますけど」
「なんでもよい。腹が空いた」
 もう食事の必要はないのだろうという私の予想を裏切るように、王様は溜息をつき恨めしげに食卓を見た。ここ最近はずっと涼しげな顔をしていたが、もしかしてただ我慢をしていただけなのだろうか。
「貴様のおかげで空腹が癖になっておるわ」
「本来必要ないって」
「習慣の問題だ」
 王様は渋い顔をしてさっそく缶ビールを開けている。空腹が癖になるという意味はいまいちわからないが、栄養価でなく食べるという行為そのものを求めているのだとしたら、意図せず私は彼の胃袋を掴んでしまったのかもしれない。
 カセットコンロに火を点し、ふつふつと煮えていく野菜や魚の切り身を見ているうち、妙にしんみりとした気持ちになった。こんなふうに彼と食卓を囲むことはもうないと思っていた。嬉しいと思う自分の心を、不健全と叱る自分もいる。なし崩しの、和解とも言えない対話のみで許してしまうのは良くないことかもしれない。
 一度めに私を凌辱しようとしたとき、彼はその気になればまたするだろうとハッキリ言った。おそらく今後もそうなのだと思う。私たちにいつまで今後があるかはわからないが、彼の悪癖が直ることはきっとない。
 一方で、自省をしないと言っていた彼が過失を認め、それを自ら口にしたというのはやはり大きなことである。
「名前」
「……はい」
 鍋をしながら今さら感極まるなんて格好悪いと思いながら、私は情けない声で返事をした。いたわるような響きが余計に涙腺を刺激する。彼は丁寧に、ゆっくりと私の名前を呼んだ。
「その鮭はもう、煮えておるな」
「はい」
 まったく有難いことなんて言っていないのに、心にじんわりと沁みてしまう王様の声色が憎らしいと思った。こんなときに王の気風を発揮しなくていい。部屋を満たす鍋の湯気に心をふやかされながら、私は王様の食器に鮭をよそう。献立選択を間違えたのかもしれない。こんなの嫌でも気が緩んでしまう。おたまを握りしめ、べそをかきながら王様のことを許す私はきっとこの世で一番哀れだ。
 癪だったので、こんもりとよそったそれを彼には渡さず、私はそのままむしゃむしゃと食べ始めた。「おい」と怒る王様を無視して、鮭の一番美味しい部分をすべてたいらげる。いつだって一番いいものを当たり前に獲得してきたのだろうが、この家ではそうはいかない。
「ここは私の家です。鮭のカマも、鶏の皮も、譲ってもらいますから」
 王様は呆れている。きっとくだらなすぎて世界を滅ぼす気すらどんどん失せている。私が器を空にするあいだ、彼は黙ってそれを見ていた。私は知っているが、お腹を空かせた彼がじっと我慢をするというのはそれだけで相当な譲歩なのだ。彼の心も湯気ですっかり曇ってしまったのかもしれない。私は躍起になって汁を飲み干しながら、雑炊用のご飯は炊いてあっただろうかと炊飯器を見た。

   *

 その晩は久しぶりに一緒に寝た。
 何をするでもなくただ私の首に顔を寄せる王様に、出会ったばかりの頃を思い出す。
 父の居場所も、キャスターの顔も、それを知りたいと思う自分の本心すら、わからないまま焼き払われていたかもしれないあの夜に、私が彼と出会った意味とはなんだったのだろう。
 王様の存在をこの世に留めたことで、再び世界が危機に瀕するのだとしたら私は天下の大罪人だ。人に剣を突きつけておいて暇だとのたまった彼に、ひとまずのところその心配はないようだが、それもいつまで続くかはわからない。
 私にできることはただ信じることのみだ。あの日、空に穴をあけた彼でなく、今ここで眠る彼を、信じて信じて普通の男にしてしまえればどれだけいいかと思う。きっと世界にとってはそれこそが罪なのだ。半神の王が女に絆され爪を折るなんて、そんな結末は神話にするにも陳腐すぎる。私は腹に回った王様の腕に自分の手のひらをそっと重ねた。少し考えるような間の後、彼は私の包帯の上を撫でた。
 それでも信じるのは勝手だ。彼が勝手にするならば、私だって勝手にする。世界の果てまで。夢の終わりまで。


2018_04_27
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