episode 31
つみの積み木

不自由な人間が狭いリビングに二人。片方は人間ではないらしいがまあそこはいい。問題は私たちの身体機能が同じように制限されているのに、その性能差が明らかであるということだ。
「ごちそうさまでした……」
 スーパーで買ったお惣菜と、レンジで温めたご飯で夕食を済ませ、食器を片付けようとしたところ私は見事にお茶碗を落とした。腕を怪我してからというもの、ちょっとしたバランス感覚や距離感のようなものがうまく掴めなくなっている。真っ二つに割れた茶碗の破片をビニール袋に入れながら、悔しい気持ちを押し殺す。
 素知らぬ顔で雑誌を読んでいる王様が、何かを落としたり倒したりしているところは見たことがない。私は本のページをめくるのにも一苦労だというのに、王様の挙動からは優雅さすら感じられる。こうして過ごしてみて改めて、彼の身体能力の高さや、精神力の強さを思い知った。
 自分のことは自分でと、暗黙のルールができてから彼はあまり食事をとらなくなった。気の向いたときに適当なものを口にしているようだが、とても生活に必要なエネルギー量を補えているとは思えない。きっと霊基の安定が関係しているのだと思う。出会った当初、彼は食事や睡眠を「本来必要ないもの」と言っていた。魔力を充分に蓄えたいま、どちらも必要に迫られてはいないのかもしれない。きっとこれまでも、私の生活サイクルに合わせていた部分が大きいのだ。
「これ食べないなら、お弁当に入れちゃいますけど」
 取り分けた惣菜を見せながら聞くと、王様はちらりとこちらを見てから目を背けた。こちらに興味のない猫のような仕草にむっとする。確かに触れさせないとは言ったが、喋らないとは言っていない。一緒に暮らしているのだから必要最低限の会話はする。けれど王様は、言わなくてもわかるだろうというふうに無言を通すことが多かった。
 拗ねて、怒っているというふうではない。どちらかというと馴れ馴れしくするなという素っ気なさが感じられた。それでも充分子供っぽいと思う。私から歩み寄る理由もないため、かれこれ微妙な距離感のまま一週間が経とうとしていた。
 食事も睡眠も必要としない、会話のない同居人。生活感に満ちていた王様との関係は「人外と人」という本来あるべくものへ戻りつつある。人でないものとの距離感は、昔キャスターに感じていたそれに近い。当たり前に交わらぬもの。当たり前にそこにいるもの。矛盾しているようだが、居心地が悪いというわけではないのだ。
 しかしそれも、相手の善良さを信じられることが前提である。この男は、果たして──。

   *

 そんなふうにして二週間が経ち、三週間が経った。
 王様は相変わらず家を空けることが多く、昼夜を問わず出入りをするためいつ戻っているのかもわからない。パスを通して存在は感じられるが、とき折り、とても遠い場所にいるのだろうと思うことがあった。
 いまは近い。しかし部屋に姿はないので、上にいるのだと思う。最近よく、彼がこのマンションの屋上で夜風にあたっていることを知っていた。気になって覗いたことがあったが、彼は何をするでもなくただじっと町を見下ろしていた。高台に立つこの建物は景観がいい。冬木のシンボルである赤い橋も、町を背に広がる山々もよく見える。
 私は一画減った令呪を指でなぞり、玄関を出た。左腕の経過は思ったよりも良く、ちょうど昨日ギプスがとれたところだった。まだ不自由さは感じるが少しずつ動きも戻ってきている。
「王様」
 屋上のドアを開け、背後に立つ。
 彼はやはり何もせず、きらきらと光る町並みを見下ろしていた。瑞々しい春の風が頬に触れる。令呪の効力が切れていることは感覚でわかった。三週間なんて、仕事に追われていればあっという間だ。
「何を見ているんですか」
 隣に立ち、私も下を眺める。彼の横に無防備に立つのは久しぶりのことだ。ゆっくりと息を吸い、目を閉じる。まぶたの裏に夜景のなごりが残り、同じものを見ているはずなのにとてもそうは思えないことに、胸が痛んだ。横を見なくてもわかる。彼はきっとあの冷たい目をしている。
「羽虫の群れと言ったことを覚えているか」
 王様は不意にそう言うと、一段高い屋上の淵に足をかけた。
「はい」
「鬱陶しいとは思わぬか、増殖しすぎた生き物の集合体というのは」
「……」
「邪魔さえ入らなければ、このような町はまとめて焼き払っていた」
 彼の口から人類への敵意を聞くのは初めてのことだ。けれど私は知っている。夢の中でも現実でも、彼の目には何度もそれが宿っていた。
「この町だけでない。今の世にはあまりにも無駄が多い。洗練されていく文明と裏腹に、それを扱う者どもの質は低下の一途を辿っている」
 その声は蔑みに満ちている。元からすべてを見下すような男だが、それは立場や視点の違いからくるものだと思っていた。けれどいま、彼の内には明確な敵意、あるいは殺意と言えるものがちらついている。私は息をすることに必死だった。気を抜くと心臓ごと圧し潰されてしまいそうだ。
「発展を担う者なぞ一握り、他はそれを食い潰すだけの有象無象に過ぎん。それでいて嫌に態度がでかい。偉そうに個体としての権利などを主張しおる」
 彼はようやく振り向いて、私を見る。
「貴様もだ。雑種」
 この蔑みは私に対し向けられたものだ。文明にたかる虫。私も所詮その一匹に過ぎない。
「……王様の言っていることは矛盾してる」
 けれど虫にだって魂はある。蟻の群れに法則があるように、人の群れにだって増えたのなら増えただけの理由があるのだ。
「人の進化にはきっと母数が必要なんです。たしかに大部分は取るに足らない凡人かもしれない。でもきっと、人は集団の安定を図ることで進化してきた。弱者を取りこぼさないことで発展してきた」
「述べるではないか小娘。だがそれも所詮は凡夫の言い分よ。無力な己を肯定し、生に意義を見出すための戯言に過ぎん。生き物は増え過ぎれば価値が薄まる。これは避けられぬ定めだ。確かに個人に非はない。非がない者を裁くことはできぬ」
 王様はそう言うと、再び町に目を戻した。
「人同士ではな」
 空気は着々と重くなる。まるで質量をもった泥のようだ。足や腕にからみついて身じろぎができない。いよいよ夢が現実へと流れ出たようだった。
「我には可能だ。己らで選別できぬのというのなら我がしてやろうというだけの話。だが弱者をまびくなど、それこそ愚行であろう。弱い者のみを排除するなど、とんだ手抜きだ。そのようなことは人でもできる」
 王様の声が夜の空に響きわたる。彼の言うことは根拠もなく正しく聞こえる。彼が言うから正しく思えるのだ。このカリスマ性は呪いの域だ。
「淘汰するならば、すべてに平等に咎を与えねばならぬ。弱者にも強者にも、どちらともつかぬ大多数の愚者にも、等しく降りかかる死の咎が必要だ。誰も残らぬのならそれでよい。だが残るのなら……その後が見ものであろう」
 泥のような魔力はとうとう肺の中にまで入り込み、呼吸を不自由にする。けれど、この男に魔力を与え続けたのは他の誰でもない私自身だ。彼が危険だと気付きながら、私は彼を救け続けた。献身的に従順に、日々、弱った王を癒し続けたのだ。なぜだろう。その答えを私はそろそろ出さなければならない。
「聖杯がそれをするのなら、我の手間が省けると思ったが」
「そんなことは許されない」
「許す? 誰に許しを請えという。神が退き四千の年月が経ったこの世界で」
「それは……」
「大体にして自業自得だ。聖杯戦争などという自滅の式は貴様ら人間が始めたことであろう。死に絶えたとて恨みごとは言えん」
「違う」
 確かにそうかもしれない。けれど違う。彼の言うことを認めるわけにはいかない。なぜなら私は生きていたいからだ。彼は一口に人間というが、私はそのような儀式のことなど半年前まで知らなかった。大部分の人間がそうだ。私たちは集合体であり、同時に個人である。高すぎる視点はそれを考慮できないのだ。
「数が増えたって個人の価値は薄まらない。薄まったように見えるのなら、それは見る側の手抜きです」
「……」
「それにもし、もし価値がないのだとしても……そんなことは理由にならない。無知も無価値も、死をもって償うほどの罪ではないはずです」
 勝手なことを言わないでほしい。何が淘汰だ。そんなことを故意にする権利なんて誰も持たない。自然を神とするならば、それは神だけがもつ権利だ。この男は神というにはエゴが過ぎる。自分の好みで世界を作り変えようとする暴君を、見過ごすことはできない。
「貴様はつくづく凡骨よなあ」
 眉を下げる王様の表情はよく知るものだ。私の平凡さを目の当たりにするたび、彼は日常的にこの表情をした。そのことに私はぞっとする。慣れ親しんだ日常の延長で、私への愛着をもったまま、彼はこの町を焼きたいと言っているのだ。
 動けない私の元へ歩み寄ると、王様は一本の剣を取りだした。いつだか金塊や宝石を湯水のようにわかせた金の波紋だ。取りだした剣もまた金色をしている。夜の中に一筋、煌めいたかと思うと、切っ先は私の首にぴたりと添う。
「力もない癖によく吠えるのが凡人の特徴だ。そして強者はもちろん、弱者より醜悪なのがこの世の大半を占める貴様のような雑種だ。大した価値もなしに、そこらをうようよと席捲しておる。一人いなくなったところで誰も困りはしないな?」
 少し横へ刃を引けば、私の首は胴から落ちるだろう。仮にも自分を助けた人間に対して酷い仕打ちだと思う。彼に心はないのだろうか。一緒に過ごした時間や、触れ合ったことへの親しみや慈しみはないのだろうか。
「困りはしないかもしれないけど、悲しむ人がいる」
 父も友も別れた恋人も、私が死んだら悲しむだろう。お手伝いさんや同僚だって泣いてくれるかもしれない。
「みんなそうです。人類は機能じゃない。心がある」
「……」
「王様だってそうでしょう」
 そうであってほしい。そうなのだと思う。王様だって私が死んだら、少しくらいは悲しいはずだ。刃を向ける本人相手にそんなことを思う私は、呑気すぎるだろうか。
「なるほど……殺す気にもなれん愚かさだ」
 そう言って剣をしまった王様に、元から殺す気がないことはわかっていた。彼が本気で殺意を向ければ私は口を開くことすらできない。愚かでいられたのは、王様を信じていられたからだ。
 彼もそれをわかっているのか、この物騒な一幕に落ちをつけるよう、空を仰ぐ。
「元より一度妨げられたことを繰り返すつもりはない。我はこの世を清算したかったが、どうやらそれも今は叶わぬようだしな」
 満ちかけた月を一瞥し、彼は柵に背をもたれさせる。
「ゆえに、することがない」
「……」
「暇だ」
 ぼそりと呟いて、王様は目を閉じた。彼の暇つぶしは心臓に悪い。そこまで暇なら久しぶりに、一緒に夕飯を食べたらいいと思う。今日は久しぶりに料理をしたし、冷蔵庫ではビールが冷えているのだ。


2018_04_25
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