episode 30
ゆるがぬ許し

やや引いた熱と痛みは薬のおかげだ。病院で飲んだものが効いてきたのか、帰りのタクシーではうとうとと微睡んでしまった。部屋に戻り、コートを脱ぎながらちらりと王様を見る。出ていったときと寸分変わらない姿勢で椅子に座っていた彼は、私の付けているギプスを見てわずかに目を見開いた。
「骨折でした。全治二ヶ月。綺麗に折れているから逆に治りは早いそうです」
「……あれくらいで折れるな!」
 大声をあげた王様に驚くが、怒鳴るというより焦るような、嘆くようなそれにどう反応したらよいかわからず、とりあえず身を休めるためにベッドへ腰掛けた。
「あれくらいって、王様全力で」
「全力など出していたら貴様は今ごろ消し飛んでおるわ!」
 否、やはり怒っているのだろう。マスターの脆弱さはそのまま彼の弱点となるのだ。いろいろと考えるべきことはあるが、解熱剤と抗生物質で頭がぼうっとしていた私はそのまま横たわり天井を見た。
「なのでしばらくは……生活が不便に……王様と比べれば大したことないかもしれないけど」
 幸い私は右利きだ。不便はあるがどうにかなるだろう。なにも腕から先がなくなったわけではないのだ。仮眠をとったらまずは着替えて、体を拭きたい。なんだかお腹もすいてきた気がする。会社へ連絡をして二、三日は休みをもらおう。営業部長は驚くだろうか。相談に乗ってくれた友人にはやはり、詳細を言えたものではない。

   *

 どうにかなると思っていた着替えも身支度も、予想以上にどうにもならず閉口する。服を脱いだはいいが新しいシャツに袖を通すのが困難で、伸縮性のあるものを見繕っても一苦労だった。せっかく拭いた体が汗まみれになるのを感じながら、なんとか着替えを終えた私はふらふらと台所に立ち、冷凍食品をレンジにかける。
 お腹は空いているのに、片腕が動かないというだけで消化不良におちいりそうだ。なんとか食べ終え溜息をついていると、どこへ出かけていたのか王様が帰ってきてこちらを見た。
「来い」
「嫌です」
 一つ決めたことがある。怪我をしたことでかえって気が紛れたなんて思っていたが、こんなのは本当に酷いことだ。私は彼を許すつもりはないし、助けを借りることもしたくない。
「暴力を振るったり、強姦するような男の人には近寄りたくありません」
 それで関係が破綻するならば、もはやそこまでだ。地獄の底に引きずり込まれるか、呆気なく捨てられるかはわからないが、私にだって自尊心がある。
 私の言葉を聞いた王様は、しばらくのあいだ何も言わず私を睨むと、買い物袋をがさりと置いた。食器を下げながら私は内心でびくびくと怯えていた。力で敵わないことは嫌というほど知っている。怪我をしていれば尚更だ。追撃され、完膚なきまでに虐げられる可能性だってある。そう考えると肩が震えた。震えをごまかすように流しの水を出し、食器洗剤に手を伸ばす。弱みを見せてはいけない。いつも通り、食後の洗い物をして間合いをはかるのだ。
 そう思いキャップを開けようとしたのだが、彼の手が後ろから伸びたことに驚いて洗剤ボトルを落としてしまった。王様は蛇口を下げ、水を止める。私は勢いよく振り向いて王様を見た。
 しんとした、静かな目をしていた。熱くも冷たくもない温度の目だ。初めて見る彼の表情に動揺して、呼吸がまた浅くなる。とっさに左腕を庇うものの、至近距離から見下ろされ、私に抵抗の術など何もないのだと思わされる。下を向いて目を逸らしたかったが、それすらできずに見つめ合う。
 王様は透明な顔のまま私の頬に手を添わせると、親指で軽くさすり、撫でた。
「許せ。マスターに手傷を負わせたことは我の過失だ」
 声もまた、穏やかなものだった。それでいてしっかりとした重みを持っている。天から降るご神託のような神々しさに、自然と背筋が伸びる。震えはいつの間にか止んでおり、王様の素直な自戒が伝わった。
「王様……」
「……」
「悪いことをしたら、ごめんなさい、です」
 けれど、それとこれとは話が別だ。彼の神格がどれほど高いものであろうと、過失は過失、謝罪は謝罪、許せは許せ、ごめんなさいはごめんなさいだ。
「誰が謝罪などをするものか! 我が先日から、貴様に対しどれほど譲歩していると思う。女に頬を張られ、殺さなかったことなど初めてだ」
「私だって、男の人にあんなに乱暴にされたのは初めてです。しばらくは、王様と寝ませんから。私が怒っていることを自覚して生活してください」
「下手に出てやれば調子に乗りおって、そも、そのような怪我は魔力を直接流せば数日ほどで」
「さ、触らないでって言いましたよね。令呪つかってもいいんですよ」
「ふん、やれるものならな。腕を出せ。その大袈裟な添え木をとらぬか」
 あろうことかギプスを外そうとする王様に、私は手の甲を翳した。これは今朝、起きたときから決めていたことだ。
「令呪……これより三週間、彼を私に触れさせないで」
 赤い光が弾け飛び、甲から全身へ燃え広がるように伝播していく。瞬間、手を離した王様の様子から、私の体に魔力の膜が張り巡らされたことがわかった。
「本当に使う奴があるか……!」
「使えと言ったのは王様です」
「貴様は考えなしのド阿呆か? 我ら二人が揉めている間に、予期せぬ事態が起きたらどうする!」
「よくよく考えてのことです。これは私の尊厳にかかわる問題。王様にはわからないかもしれないけれど、命をかけて優先すべきことなの」
 三週間でギプスがとれると医者は言っていた。その頃には許せているかもしれない。でも、今はまだ無理だ。彼が私に触れないと知った上で、契約を解消せずそばにいるというのなら、そのときはまた一から関係を築いてもいい。
「勝手にしろ」
 安い復讐をするために待つタイプではないだろう。それにきっとこの令呪だって、今すぐ破ろうと思えば破れるのだ。聖杯が事実上、存在しない今の世界において令呪の効力は薄いと父は言った。しかし王様を飲み込みかけた「あな」が在る以上、どこかしらには残っているのだ。それは別次元かもしれないし、異空間かもしれない。いつの日にかまたこの世界に舞い降りて、私たちを狂わせるのかもしれない。
 聖杯に願うほどの大望は私にはない。世界を滅ぼすほどの存在に一体何を託すというのか。それよりも、今は慈養と強壮だ。泥でなく、お粥の沸き続ける鍋などがあれば最適である。そんな理由でギルガメッシュ王を戦わせたら、聖杯戦争のレギュレーションに反するのだろうか。疲れ果てた頭にはろくな疑問が浮かばない。


2018_04_22
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