体中の組織が組み変わった心地だ。血管に血が流れるように、神経が全身にはり巡るように、身体の構成に欠かせない、ある一つの器官が今まで眠っていたことに気付く。ほぼ無理やりに起こされたそれは、しばらくのあいだ私の中で燃えるような熱をもち、息すらできない痛みとなった。
路地の端で悶える私を、男は無表情に見下ろしている。コンピュータのインストールを待つときのような、退屈で仕方がないという顔だ。
ようやく体内の脈動が落ち着いて手足に自由が戻った頃、彼は「行くぞ」と言って私に移動を促した。
「どこへ……?」
「案内をしろ」
私が彼を案内できる場所など一つしかない。二人とも、今は満身創痍だ。これから何が起こるにしろ、体勢を立て直すための休息は必要だろう。なにより私が限界だった。
ふらつきながらなんとか自宅へと戻り、私は彼を中層マンションの一室へ通す。
「清潔ではあるが、驚くほど狭いな」
眉を寄せ溜息をつく男に、私の年齢であればこれでも平均以上であると主張しようとしたが、どうにも伝わる気がせず口を閉じた。
「水場へ通せ」
そう言われ、今さらながら彼が重症であることを思い出す。手を貸そうとしたけれど、触れるなというふうに睨まれたため黙って風呂場を指差した。彼がお湯を浴びている間に救急箱を引っ張り出すも、およそ切断された腕を治療できるようなものは見当たらず、途方に暮れる。
「当て布があればよい」
血を洗い流した彼は裸のまま、かまうことなくこちらへと近付いた。怪我人相手に非難することではないが、目のやり場に困るためタオルケットを手渡す。
「ガーゼと、包帯くらいしか」
「覆えれば何でもよい。手早くせよ」
指示をする彼の顔色は、外で見たときよりも格段に良くなっていた。致命的な怪我を負っているとは思えぬほどだ。おそるおそるガーゼをあてた切断面も、まるで古傷のように乾きはじめている。
「わからぬか? 貴様のその貧弱な魔術回路が、我と通じた証だ。些か物足りぬが目覚めたばかりでは仕方あるまい」
「魔術の回路が……?」
実感を得られず手を掲げる。ひときわ熱を持ち脈打っていた手の甲には、いつのまにか見覚えのない紋章のようなものが浮き上がっていた。
「令呪は魔力の源だ。それがある限り、現世において我の存在が損なわれることはない」
男の体には、赤い刺青のような線が走っている。均整のとれた美しい体だ。裸体だというのにいやらしさを感じさせないのは、完璧に見えるその造形ゆえかもしれない。
「あなたは……人ではないのですね?」
「我は人の王であり人ではない。サーヴァントとはかつて在った者の影だ。ギルガメッシュ──名を言えば我のおおよそはわかろう」
「……ギルガメッシュ」
「教養のない貴様の頭ではろくに理解できぬか。まあよい。我を理解しようなどとは、ゆめ思わぬことだ」
誰もが知る王の名だが、彼の言う通り私に詳しい知識はない。古代史のどこか、あるいは神話由来の創作で聞いた気がするが詳細は曖昧だ。
「つまり、過去の人物が現代に蘇っていると?」
「そうとも言えるが、違うとも言える」
「じゃあキャスターも」
「楽をして知ろうとするな。一先ず言えるのはここまでだ。後は自らで見定めよ」
気丈にしているが消耗は激しいようで、彼はそう言うとばたりとベッドへ横たわった。私は部屋の灯りを消し、傷を隠すように毛布を掛ける。
「私は、名字名前といいます」
「名字……知らんな。人間の魔術師など幾人かしか知らぬが、我が知らぬのなら大した家系ではないのだろう」
「キャスターは、あなたと同じくらいの年齢でした」
「間違えるなよ。我は貴様の事情になど興味はない。先ほどここまでと言ったな? もう余計な口をきくな」
とりつく島もない王様の態度に、私は仕方なく救急箱を閉じる。今日は私も休もうと、客用の布団を敷きながら過去のことを思い返した。
「匂いが」
つい口を突いたのは、長らく忘れていたものがふいに鼻先を過ぎったからだ。
「……匂いだと?」
もう寝たと思った王様が、静かな声で聞き返す。
「はい。彼がいるときは、いつも良い香りがしました。花のような、夢のような」
「……」
彼はそれきり何も言わなかった。けれど聞き流したというより、何かを考えているような沈黙だった。私は横になりながら、父にメールを送信する。とりとめのない定期連絡だ。疑問文は一つもない。
今まで聞けなかったいくつものことを、私は今日、出会ったばかりの男に尋ねたのだ。心が熱く脈打っている。目覚めたばかりの回路をめぐり、それは王様へと流れ込んでいくようだった。
*
翌日、いつも通りの時刻に出勤した私は我ながら真面目だと思う。
どこと指し示せない場所が筋肉痛になったような、漠然とした怠さはあったけれど、痛みや熱は引いていたため生活に支障は出ていない。けれど問題は山積みだった。
とりいそぎの食料や、看病に必要な医療品などを一通り買い込んだ私は、家路につきながらサーヴァントと呼ばれる者の保険適用や住民票の必要性など、考えるだに答えの出ない疑問に頭を悩ませた。
「具合はいかがでしょう」
部屋へ戻ると、王様は家を出たときと同じ状態で布団に臥したまま、静かに息をしていた。明かりは点いているし、寝ているわけではなさそうだ。何かものを食べないと回復しないのではないか。それとも私が食べていればそれでいいのだろうか。聞きたいことは尽きないが、あまりうるさくしてもまた怒るだろうと、ひとまず諸々の問題を棚上げする。
「お腹、すきましたか?」
「かまうな」
やはりまだ、相当悪いようだ。一言そう告げると、彼は目を閉じて眠ってしまった。令呪に手を当てて魔力のパスというものを意識する。離れていても今日は一日中、王様の存在を感じていた。回路はちゃんと機能しているはずである。
そんな彼がようやく起床したのは、私が夕食と風呂を終え、寝る支度を整えている頃だった。
「消化にいいものが、そこに少し」
粥とスープのタッパーを指さすと、王様はちらりと目を向けてから椅子を引いた。食べる、ということで良いのだろう。温め直し、なんともいえない緊張感の中で皿によそう。
出しておいた男物のスウェットを履いて、無言でスープを啜る古代の王様を見ているとめまいをもよおしそうになるが、とりあえず「不味い」とちゃぶ台を返すことはなさそうだった。しかしできれば上も着て欲しいと、痛々しい腕を見て思う。器用に食べているが、手助けは無用なのだろうか。
「衣食と睡眠は、人と同じと思っていいですか?」
「どちらもなくても死なぬ。だが今は別だ」
「これから、どうしましょう。今まではどこに」
「拠点があったがもう戻らぬ。業腹だが、しばらくは隠遁生活よ」
それならやはり、新たに部屋を借りる必要があるだろう。病院だって、このままかからないわけにはいかないし、彼の金銭事情が気になるところだ。そもそも彼がいつから、なぜ、この世界にいるのかすら謎である。
「少しずつ、考えていきましょう」
「貴様が考えるべきことはない。我は好きにする。貴様はただ仕えていればよい」
「仕えるって言っても、いつも一緒にいられるわけじゃ……」
そう答えながら、私はようやく認識の齟齬に気付いた。
「もしかして、この部屋にずっといる気ですか?」
「貴様は何を言っている。我の療養場所としてここへ案内したのは貴様であろうが」
「そ、そうですが、ずっと置くことはできません。ここは私の家です」
「我とてこのように手狭な場所で寝起きなどしたくないわ。だが今、貴様に転居を迫るわけにもいくまい」
やはりだ。彼は一時の休息でなく、ここを自らの拠点とすると言っている。のみならず、今後の生活環境の改善まで望んでいるようである。
「我慢はしてやるが最大限、我に尽くせ。王と寝食を共にする栄誉を許すのだ。生半なことはするなよ」
彼は最大限の譲歩というふうにそう言うと、粥の最後の一口を飲み下し、またベッドへ戻ってしまった。私もつられて立ち上がるが、壁を向く王様の背中に反論を許す気配はなく、すごすごと座り直す。
確かにキャスターは父の傍にいることが多かった。けれどあの家に住んでいたという認識はない。いたりいなかったりする客人の男、といった印象だ。彼はいわば父の同僚のような、友人のような、近しいが身内とは少し違う──人でないもの特有の距離感を保った存在だった。
「……やっぱり無理です! 私、日中は家にいないから看病もできないし、しばらくはどこかに入院した方がいいのでは」
「貴様は本当に何も分かっておらぬな。サーヴァントに人の医療など意味を成さぬ」
「じゃ、じゃあしばらくはしょうがないけれど、ここは王様が住むには狭いだろうし、それに」
「それになんだ」
「それにその……私にはお付き合いしてる人がいるので、男性を家に置くことはちょっと」
つまるところ、目下の問題はそれであった。私たちとは何もかもが違う人外の存在と思っていたが、こうして部屋にいれば、彼は思いのほか、人だ。マスターとして魔力を供給することはかまわない。私もまだまだ知りたいことがたくさんある。けれどこの部屋で共に暮らすとなると話は別だ。
なんとなく決まりの悪い私の主張に、王様はこちらを振り返り、心底心外だというふうに顔を歪めた。
「くだらん。恋人がいるからなんだ」
「なんだって、やっぱりまずいですよ」
「あまり首を跳ねたくなることを言うな。何がまずい。我が貴様などに、わずかでも女を感じると思うのか? 思い上がりも大概にしろ」
「……」
「と言いたいところだが、まあ貴様が気に病むというのなら仕方あるまいな。疾く別れよ」
「はい?」
「男を切れ。それで済む」
出会って二日目にして確信するが、この男は相当な性格をしている。王という立場がそうさせるのか、それとも個人の問題か。生きた時代の差異を踏まえても酷いものである。
「別れませんよ」
「ならば気にかけるな。だが間違ってもここへは連れ込むなよ。我は寝る。灯りを消せ」
昨夜以上に一方的に会話を打ち切られたものだから、私はついむっとして「王様!」とベッドへ詰め寄ってしまった。あのとき感じた、刺すような殺気を一晩で忘れた私は馬鹿としかいえない。おとなしくスープを啜る姿を見て、身近な男であると錯覚してしまったのだ。
「生活の全てを投げ打つ覚悟もなく、我と契約をしたのか?」
気付いたときには引き倒され、馬乗りになられていた。ベッドの上ではあるが、彼の言った通り貞操の心配をするどころではない。もっと致命的な危機感が喉元に迫り、命をぎりぎりと削り取られている気分だ。
「申したであろうが。我は貴様の事情など知らぬ。どうあれ貴様は我のマスターとなったのだ。今さら責務を放棄することは許さぬ」
「せきむ……」
「我のマスターの責務とはすなわち、我への従属だ」
こんなのは詐欺だ。「すべて教える」と言ったくせに自分で見定めろなんて話が違うし、そのわりに私の負担ばかりが増えていく。そもそも彼は私の知るサーヴァントとやらと、何もかもが違いすぎる。誇大広告の契約詐欺としか思えないが、ろくな確認もせずその場の勢いで了承したのは他でもない自分だ。けれど言い訳をさせてもらえば、あのときはそうしなければ死ぬと思ったのだ。実質、私に選択肢などはなかった。
社会に出て数年、勧誘や契約の類には慎重と自負してきたが、ここへきて私の人生は盛大な搾取の予感を漂わせていた。
「我が貴様を殺せぬこと、その状況に感謝をしろよ」
寄せていた眉をふいに緩め、王様は愉しそうに言った。メソポタミアの神話体系に疎いためこれは予想でしかないが、ギルガメッシュ王はきっとどの神様とも折り合いが悪かったに違いない。
性悪の王が私の上で笑っている。父からの返信はまだない。親の心子知らずと、今さら思っても遅いのだろう。