熱い息が耳にかかる。強く圧されて呼吸ができない。きっかけは些細なことだった。久しぶりに一緒に出かけ、最寄駅の小さなショッピングセンターで買い物をしていたのだ。王様が少しのあいだ目を離した隙に、声をかけられたのがいけなかったらしい。
ありがちなナンパだと思い適当にあしらおうとしたのだが、こんなとき妙におたおたとしてしまうのが私の鈍くさい所だと、自覚してはいる。口のうまい男に丸め込まれ、地図の表示された携帯電話を一緒に覗き込んでいた。道がわからないというのなら目的地案内の機能でも教えて終わりにしようと、画面に目を走らせる。
「西口のイベント広場ですよね? それだったら……」
言いながら顔を上げると、思いのほか近い位置に相手の顔があった。男の目がじっとりと私の唇へ向いている。
「その口紅、かわいいね」
「え」
「どういう店行くの? 俺、女の子の買い物ってよくわかんなくてさ」
「……すみません、友達が待ってるので」
男の手が馴れ馴れしく腰に回り、これはまずいと距離をとろうとしたときにはもう遅かった。至近距離にいたはずの相手の体が物理法則を無視した吹っ飛び方をして、歩道の植え込みへ埋もれる。襟口を掴んだ王様の手がためらいなく男を突き飛ばしたのを、私の目はかろうじてとらえたが、当の本人は何をされたのかわかっていないだろう。
続けて王様の背後に金色の輪が浮かんだのを見て、私はあわてて首を振った。
「王様、大丈夫です! 私はなにも……」
「誰が貴様の心配をした。その不届きな盗人に、王の財宝の一つでもくれてやろうという心遣いではないか」
「王様!」
町角はすでにちょっとした騒ぎになりつつある。このまま彼が魔術のようなものを使えば注目はさらに集まるだろう。
必死でなだめる私を見て、王様は冷たい目をすると強く私の腕を引いた。足早に進む彼の後ろを、躓きそうになりながらなんとかついていく。陽の落ちた町の薄暗い路地を抜け、たどり着いたのは狭い袋小路だった。そういえば、私が王様を見つけたのもこんな場所だった。あのときと比べれば理解できている、はずだ。それなのに彼の思惑がわからず、私は窺うように首を傾げた。その首に、ぐるりと手のひらが回る。
「何ゆえいたずらに男を煽る」
「あ、あおってなんか……私はただ、道を」
「あの下衆のことではない」
そう言われ、王様の目を見て、ようやく理解する。私が煽ったのはこの男だ。けれどそんなつもりは少しもなかった。だいたい王様とのあいだに守るべき貞潔さなどないはずだ。ナンパ男の手が少し触れたくらいなんだというのだろう。
「隙を見せるなと言ったな?」
「……私の心配なんかしないって」
「わからぬ女だな。心配でない。自覚をせよという話だ」
「自覚?」
「成り行きとはいえ、この我の寵愛を受ける身だぞ。王の後宮に入った女が他の男に接近を許すなぞ、不心得の極みであろうが」
当然のことのようにそう言うと、彼は時々、家のリビングでそうするように私の体を背後から室外機の上へ押さえつけた。嫌な体勢に、まさかと冷や汗がにじむ。
「……! や、なにを」
「我の怒りを鎮めろ。体を使え」
怒気と愉悦の入り混じった王様の声に、ぞくりと背筋が粟立った。こんなときに脅しや冗談を言う男ではない。言葉通り、この場で今すぐ自分の熱を受け止めろと命じているのだ。いつもするように片手で足の付け根をまさぐられ、逃げ出そうにも被さるように動きを封じられ抗えない。こうなってからの展開が性急であることは身をもって知っている。普段なら流されてしまうが、こんな路地裏で体を許す気になどなれるはずもなく、ただひたすら拒絶感がつのった。
「やめて、王様、おちついてください」
「諦めて受け入れぬと、辛い思いをするぞ」
「だめ、できませんぜったい、こんな……ん、ああ!」
「はは、まるで強姦だな」
これが強姦でなくてなんだというのだろう。無理やり押し込まれ、体の奥が引き攣れそうになる。充分にぬれていて、なんとか受け入れきれる相性なのだ。本来、彼の体は私には過ぎるものだ。感じていなければその無理が浮き彫りになるばかりで、痛くて苦しくて息ができない。
「あれだけ覚えさせたろう。奥まで開かぬか」
いつになく興奮した王様の息が耳にあたり、彼の嗜癖を思い知る。民を、女を蹂躙した悪虐の王と記されていた。カリスマ性を持ってすら不評をかったその色欲は、死後、概念となっても薄まらないようだ。
彼が存分に悪癖をふるい、私の体からぐったりと力が抜けるころ、ようやく満足したのか腰を数度震わせて、王様はゆっくりと体を引き抜いた。二人の荒い息が壁の内側にこもり、真夏のように湿度が上がっている。声を抑えていた私の喉はしばらくまともな呼吸ができず、ひゅうひゅうと心もとない喘鳴になった。
「たまには空の下というのもよい」
呆ける私の汗をぬぐいながら、王様は怒っていたことなど忘れたとばかりにすっきりと息を吐いている。
そこからどのように自宅へ戻ったのかはよく覚えていない。ただ痛みとぬめりで歩きづらく、手を引く彼の指をなんとか掴んでいた気がする。ばたりと玄関のドアが閉められた音でようやく我に返り、靴を履いたまま部屋の中を見た。廊下の明かりをつけた王様の背中が妙に遠く見える。中に出された精液が太腿をつたい落ちるのを感じ、こんな状態で歩いてきたのかとみじめな気持ちになった。
「いつまでそうしておる。湯を浴びて身を整えぬか」
私が傷ついていることなんて、彼にとってはどうでもいいことらしい。言われても動こうとしないことを訝しんでか、彼は無言で振り向きこちらへ歩み寄った。反射的に身を引いた私の腰がドアノブに当たり、ガタリと鳴る。その反応に何を思ったのか、王様は眉をひそめじっと私を観察した。震えが止まらず、涙が滲む。
「いやだって、言ったのに」
どうして、と叫びかけるも結局、声にはならなかった。わかっている。王様の言い分はいつも一貫している。私は彼の魔力源で、この世界での彼の世話役を申し付けられた小間使いだ。二人の間に公平性はなく、主張できる権利もそうなく、ましてや王からの愛情などあるはずもない。そんな関係は彼にとって通常のもので、罪悪感や後ろ暗さはないのだろう。それでも私は、最低限の尊重を信じていた。令呪のルールを教えた王様が、あの日から私を一人の契約者として、利害を分け合う共同体と思ってくれていると信じていた。そうでなければ、こんな男と共に暮らすことなどできるわけがない。
伸びる手がいつになく恐ろしく、いやだと首を振る。
「やめ……」
「名前」
「触らないで!」
彼が私の名前を呼んだことをきっかけに、とうとう何かがはじけてしまった。気づいたときには力一杯、彼の頬を張り、右手のひらに集まる熱をぼんやりと感じていた。
人を叩くなんて初めてのことで、怖くて顔を上げられない。今度こそ本当に殺されると思った。彼が何も言わず肩を掴んできたため、私は必死になってドアを開けようともがく。
「そのなりで外へ出るな」
「やだ、やだ」
「……今日はもう何もせぬわ」
彼は抑揚のない声でそう言うと、叩かれたことには触れず私を風呂場へと押し込んだ。
「湯を浴びてまいれ。もう寝ろ」
回らない頭でシャワーを浴び、体を拭く。着替えに袖を通したとたん芯が抜けたように脱力してしまった私は、覚束ない足どりで寝室へむかい、布団を敷いた。久しぶりに敷く客用の布団は少し黴臭く実家の物置のような匂いがする。
すぐに意識を手放してしまったため、香など炊く間もなかったが、夢には誰も出てこなかった。王様のことが怖い。それ以上に腹が立つ。一発叩いたくらいで足りるはずもない。信頼を踏みにじるのなら、役割を果たす義理だってないのだ。何が悲しいのかもわからないまま、ぐるぐると感情の渦に身を沈めていく。