冬の空気が多少ゆるみ、夜風も湿り気を帯びてきた頃。王様は私に何も言わず、ふらりとどこかへ出かけることが増えた。半日から数日間、家を空けメールをしても連絡が取れない。初めは心配したけれど、何度か続くうちに慣れてしまい、とりたてて詮索をすることもなくなった。
甲に令呪がある限り彼との繋がりは目に見えるのだし、距離が離れても相手の存在は感じることができる。それならば互いに干渉をする必要もないだろう。王様と直接体を繋ぐようになってから、彼の霊基が充実していく様子は手に取るようにわかった。パスが開き切ったのも大きな理由かもしれない。単独での行動がある程度可能になったのも、どうやらそのおかげであるらしい。数日隣にいなくとも、王様の存在に支障が出ることはないようだった。
「あ……おかえりなさい」
仕事帰りに最寄り駅の階段を降りると、ちょうど駅前のロータリーをふらついている王様の姿が見えた。タクシーでも使ったのだろうか。小走りに駆け寄ると彼は私を一瞥し、わずかに目を細めた。薄い反応をよこしたきり前を向いた王様に並び、家までの帰路を歩く。
「タクシーで出かけてたんですか?」
「まあな」
「今日、外回りの仕事多くて足疲れちゃいました」
「ふん」
素っ気ない態度ではあるが、相槌を打ってくれるのだから機嫌が悪いわけではないのだと思う。営業用のパンプスを鳴らしながら、こつこつと商店街の歩道を抜けた。
雑踏の中で客観的に見るギルガメッシュ王は、彼がやんごとなき古代の王であると知らない人から見ても、否、むしろ知らなければ一層、特異なオーラをまとって見えるのだと思う。地方銀行の自動ドアに映り込む王様と自分の姿を見ていると、なんだか妙にざわついた気持ちになる。見なれた町角に融和する王様の姿は、古い絵本のように心の奥のノスタルジーを刺激する。それでいて衣服も所作もすっかりこの時代に馴染んでいるのだから、やはり騙し絵のようだ。
住宅の路地に入ってもその感覚は消えず、のどかな夕飯の匂いなどが漂いはじめたこともあり、かえって違和感は増した。ふと横を向けば、陽の落ちた道々にちらつく車のライト群が見えた。坂の多いこの町では人々の営みが模型のようによく見えた。
「まるで虫よな」
私のわずか前方で、彼もまた町を眺めながら夜風に髪を揺らしている。
「え?」
「文明の火に集まる羽虫の群れよ」
その目はいつになく、冷たい色をしていた。夢の中と寸分違わぬ恐ろしさを感じ、私は思わず足を止めそうになった。一定の速度で坂道を登る王様の後ろを、なんとかついていく。彼はこの町の人間を憎んでいるのだろうか。父の言っていた、世界の終焉という言葉を思い出す。それらの要素から導かれる推測はそう多くない。膨大な見識を誇るキャスターでなくとも、ある程度の予想はついた。
春の匂いが胸にこもる。呼吸が重く、涙が出そうなのは、きっとこの坂道のせいだ。家に着く頃には、またなんていうこともなくなっている。震えそうな指先を握りしめ、私は無心で坂の頂上を目指した。
*
それから数日間、王様はまた家を空けた。どこで何をしているのか気にならないこともないが、近頃の夢見の悪さからなんとなく心の置き場をなくしていた私にとって、彼の不在はありがたくもあった。
すっかり一緒にいることに慣れていたけれど、ほんの数ヶ月前まではこうして一人で過ごしていたのだ。週末に会える恋人と、日々こなす社会人としての業務。どこにでもあるありふれた日常だった。胸に溜め込んだ、父への疑問を別にすれば。
玄関に挟まっていた宅配便の不在票を開きながら、生活の変化に思いを馳せる。記載された番号に連絡をして、目についた家事を一通りこなしたところで呼び鈴が鳴った。大きな段ボール箱の伝票には、昔から実家でお世話になっていた給仕長の名前が書かれていた。ふわりと漂うのは甘い香りだ。それを嗅いだとたん、私は王様のことが恋しくなった。
この広いとは言えないマンションの一室で、じっと存在を輝かせる古代の王。ときに呆れるほど口うるさく、ときに底なしの度量を見せるあの王は、私から離れどこかへ行こうとしているのだろうか。魔術を使えない私の元に、いつまでもいることはないだろうと父は言った。彼に何か目的があるのなら確かにそうだ。体を癒した後、私のような半端者と一緒にいる理由はない。
箱を開けながら考えごとをしていると、ふと彼の存在を近くに感じ、私は留守番中の犬のように機敏に顔を上げた。カチャリと扉が開き、気怠い顔をした王様が顔を出す。
「見て王様、林檎たくさんいただいたんですよ!」
床に座ったまま、おかえりも言わずにそう告げる。彼は一瞬眉の力を抜き、そしてすぐに溜息をついた。
「……おかしなタイミングで我の毒気を抜くのはよさぬか」
「そ、そんなこと言われても林檎、たくさん……」
赤い果実を両手に持ちながら、私はなぜかしどろもどろになった。王様の好きな林檎だ。つやつやと赤く光って、五つ六つと並んでいる。二人で食べるにしてもなかなかの量なので、パイでも焼いたらいいかもしれない。煮詰めてジャムにしてもいい。
「我は訳あって疲れているゆえ、今日はそれを食べて貴様を抱いたのち、さっさと寝るぞ。布団は干してあるだろうな」
「……雨だったので干してませんが」
「なんだと気の利かぬ、まあよい。てきぱきと支度をしてこちらへ来い」
たしかに申告通り、今日の王様は魔力の反応が薄い。林檎を剥いているあいだじっと私の手元を見ていた彼は、うまそうだな、と呟いてこちらへ手を伸ばした。一かけら口に放り込み、神妙な顔で咀嚼する。
「甘いですか?」
「ふむ。悪くはないが、この国の林檎は些か甘すぎる」
そういえば、映画などで見る海外の林檎はもう少し小ぶりで、酸味が強いと聞いたことがある。そんなものかと種をとっていると、王様の手がまた伸びた。ちょっと待って、と諌めようとした私の指を掴むと、何を思ったのかそのままぱくりと口に含む。温かい舌の感触がして、思わず声がもれた。
「甘いな」
「王様?」
「やはり貴様が先だ」
「先って」
近くで見る彼の顔にはうっすらと隈が浮いている。三大欲求がない混ぜになったこの王様を、まともに御すのは難しい。
「林檎がさびちゃう」
「菓子にでもしろ」
片腕で抱えられ、ベッドの上へ放り落とされる。ベッドまで運んだことを褒めるべきか、急な行為を責めるべきか。悩んでいるうちに口を塞がれ、どちらも言えなくなった。甘い甘い、果実の味が思考を溶かす。
「……まこと、女を抱くには不便な体よ」
彼は初めて自分の腕に対して弱音をもらし、私の胸に顔をすり寄せた。
愛でるように抱いても許されるだろうか。撫でつけた前髪の下で、眠たそうな目がしばたいている。