ロンドン、という四文字が、無意識に口から零れるようになってひと月。その晩も私は手のひらで湯飲みを包みながら、遠き西欧の街に思いを馳せていた。
「……そのように腑抜けるくらいなら、とっとと自ら足を運べばよかろう」
「でも、来るなって言われたし」
「だからなんだ? 親の言いつけを守り留守番をする歳でもあるまい」
王様は呆れたような面持ちで食後のアイスを食べている。季節限定の和風味が気に入ったのか最近はそればかり食べているが、二つ目に突入したということは私の分はないということだ。
「それはそうですけど……」
行こうと思えば、今すぐ仕事の休みをとり空港に足を向けることだってできる。それをしないのは私の心がひとまずのところ落ち着きをみせているからであり、つい呟いてしまうのは、おまじないのようなものなのだ。
いざとなれば会いに行くことができる。いつでも電話をかけていいという、確かな繋がりもできた。そのような安心感により、私のハングリー精神は大分満たされていた。そしてもう一つ──。積極的な行動をためらう理由が、たしかに芽生えはじめている。
『魔術を教えない』と父は言っていた。それ自体は納得できないこともない。元から魔術師を目指していたわけではないし、私が知りたいのはどちらかといえば魔術を取り巻く、世界の仕組みだ。問題は、その理由の方にあった。
父は私とギルガメッシュ王の関係を好ましくないものとしており、できる限り早く契約を解消させたいと思っている。一方の私は、初めこそ彼を未知への手がかりとしていたが、今では彼との関係を上手く持続させるための手段として、魔術のことを知りたくなっていた。本末が転倒しつつあるが、父と自分とのあいだにずれが存在することは確かだ。もしくは初めから、私は父のことを知るために、父の望まぬ方向へ逆走していたのかもしれない。
けれど、どうあれこうなってしまったからには、今後も自分なりに彼と向き合いたいと思っているのだ。
「寝るぞ」
「はい、電気消します」
王様はそう告げて一足先にベッドの中へ入っていく。私は済ませたい仕事があったため、手元の電気スタンドを灯しパソコンを開いた。すっかり所帯染みた彼とのやりとりや、定期的にもつ体の関係がこうした情を加速させているのだとしたら、それすらも彼の思うつぼなのかもしれない。
「おやすみなさい」
悪い存在ではないのだと思う。苛烈で過激で勝手な人だが、その分ゆるぎない価値基準を持った、貴重な人物であることはわかる。彼の背後から見る景色はどのようなものだろうと、背を追いたくなる圧倒的な勇猛さがそこにあった。すでに私は取り込まれている。心酔しているわけではないが、抗えない時点で大差ない。
しばらくかたかたと指を動かし、適当なところで仕事にきりを付けた私は、寝入った彼の背に寄り添うようにベッドへ忍びこんだ。温い布団の感触を体になじませながら、王様の寝息と自分のそれとを合わせていく。心と体がパスを通じて一つになり、引きずられるように眠りの中へ落ちていく。これを心地いいと思わないのはもう互いに不可能だ。私たちは相性がいいのだろうか。そんな自惚れもわずかにあった。
*
黒い空だ。真っ暗で何も見えず、星の一つもない上空に一筋の輪が掛かっている。あれはふち≠セ。ふちはだんだんと広がって、地上を覆い尽くそうとしている。
そうして気付いたのは、空だと思い見上げていた黒が、穴そのものであるということだ。夜空さえ飲み込む大きな穴はその端を街へとにじり寄せている。どこから漏れ出たのか、町並みはすでに泥に飲まれていた。俯瞰する私にまで及ぶことはないが、そこに住む人々の安否を思えば気が気でない。
ぐるりと視線を回し、目に留まったのは金色の甲冑だった。
小高い裏山に立つ彼の、すぐ足元にまでその泥は迫っており、金の鎧は今にも沈んでしまいそうだ。危ないと叫びたいのに声が出ない。そんなところにいたらあっという間に飲み込まれてしまう。この町を見捨ててでも逃げてほしい。かつて泥の波から国を守った彼の王が、ここで一人埋もれていくのは見るに堪えない。あの国とこの街は、どうにも違いすぎる。
すでに腰まで浸かっている王様の背に、私は必死で呼びかけていた。しばらくの後、声が届いたのか彼はこちらを顧みる。ほっとして手を伸ばそうとした瞬間──背中に嫌な汗がつたった。
王様は笑っている。
地獄のような町を見下ろしながら、見たこともない残忍さを目の中に滾らせていた。息を飲み、あとずさる。いつの間にか地上へ降りていた私は、泥の中で伸ばしかけた手をさまよわせた。そうして私は、自分が大変な思い違いをしていることに気付く。
彼は飲まれそうになどなっていない。この泥は、彼から出ているのだ。
王様の足元からとめどなく流れ出る死の泥は、路地を流れ家々を覆い、命あるものを押し流していく。
反転する認識に、世界の様相ががらりと変わる。王様はこの町を守ろうとなど初めからしていなかった。そうでなく、むしろ──。
『王様を信じすぎてはいけない』
どこからか聞こえたキャスターの声に、はじかれるように背を起こす。
夢から覚めた私の背中はびっしょりと汗に濡れていた。
私が起き上がったことで冷たい空気が肩に触れたのか、王様はわずかに身じろぎ布団を手繰り寄せている。薄闇に浮かぶのはいつもと変わらない寝顔だ。こうして眉の力を抜いていると、かえって造形の美しさが際立って純真無垢な子供のように見えてしまう。
私はベッドから抜け出すと、キッチンでコップ一杯の水を飲んだ。悪夢の余韻が消えてくれず、足元がうかうかとして落ち着かない。しばらくのあいだ呼吸を整え、眠っている王様の背中を見つめた。もう春めいてきたとはいえ、暖房の付いていない部屋の温度は低い。明日も仕事があるし、いつまでも体を冷やすわけにはいかない。
気が落ち着かないまま仕方なくベッドへ戻ると、王様は無意識の仕草で冷えた私の体を包みこんだ。自分の布団を冷やすものを放っておけないとばかりに、ごしごしと温められ髪がくしゃくしゃになる。
「王さま」
小さく呼びかけると、彼は「わかった」とひとこと言って私の顔を胸へ押し付けた。それきり規則的な寝息を繰り返すのみだったので、おそらくは寝言なのだろう。どんな夢を見ているのか知らないが、普段だっておいそれと了承なんてしない彼が妙にはっきりと頷いたのがおかしくて、力が抜けてしまう。
彼の本質に対して、目を瞑り続けることはできない。夢に見る彼のイメージはおそらく偽りのないこの王の本性だ。けれどこうして目の前にいる王様だって、何よりも確かな、彼の一面ではあるのだ。
一蓮托生、呉越同舟。飲まれるなら共に、浴びるなら誰よりも近くで、彼の泥に染まることが私の運命なのかもしれない。