いざ会話をするとなれば、緊張してうまくいかないものだと思っていた。けれど久しぶりに父の声を聞いた私が抱いたのは、圧倒的な安心感だった。
「お父さん……」
帰りの遅い父を、寝ずに待ったことがある。幼い私はどうしてかその晩、父がどこか遠くへ行ってしまう気がしておとなしくベッドの中にいることができなかった。使用人の目を盗み自室を抜け出して、裸足のまま玄関のポーチでうずくまり、振り子時計の音を聞いていた。手も足もすっかり冷えた頃、帰ってきた父は優しく私を抱きあげて言った。
「こんなところで寝ると風邪をひくよ」
今思えば的外れなお説教だったと思う。私は寝てなんかいなかったし、ただ父に抱き上げて欲しくて、駆け寄るのを我慢して顔を伏せていたのだ。その晩は父のベッドで一緒に寝た。私はうとうととまどろみながら、父の袖口からのぞく赤い傷を見て痛そうだなと思った。いま思えばあれは傷でなく──。
『令呪の仕組みは知ってるかい』
父は前ふりもなく本題に入ったかと思うと、私の返事を待たずに説明を続けた。令呪とは魔術師が英霊を召喚し、使役していることの証である。強大な魔力を秘めた刻印は、サーヴァントへの三度の命令を可能にするらしい。すでに知る知識と大きな誤差はなく、私は王様の視線を背後に感じながら小さく相槌をうった。
「私の状況、どれくらい知ってる?」
『キャスターづてに聞いているから、キャスターと同程度だ』
「……お父さん、今どこにいるの?」
聖杯戦争の仕組みもキャスターの正体も気にはなるが、何よりも知りたいことはそれだ。
父は私の問いに少しのあいだ沈黙すると、溜息のような息継ぎをして、続けた。
『冬木を発端とした世界の終焉が、若き魔術師たちにより防がれることはわかっていた。よって静観していたが』
「終焉?」
『キャスターも言っていただろうが、彼にできるのは膨大な観測データから割り出す、限りなく精密な未来予測だ。予測は予知とは違う。ときには誤差が生まれる』
「その誤差の先にいるのが、今の私ってこと?」
『そういうことだ。私はいまロンドンにいる。だが会いに来てはいけない』
彼があまりにさらりと言ったものだから、私は危うく聞き逃すところだった。ロンドンにいる。会いに来てはいけない。一番欲しかった答えと、一番欲しくない言葉とを同時に聞かされ頭がぐらぐらとした。
「じゃ……じゃあどうして教えるの?」
「かわいい娘が、知りたがっているからだ」
父の声は昔から変わらない。一定の速度と温度をもった抑揚のない声だ。けれど私には温かく聞こえる。愛情があると知っているからだ。
「私としてもいろいろ考えた。答えられない問いもある。だが、大事なのは答える≠ニいう行動なのだとようやく気付いた」
父の言うとおり、私が望んでいたのは答えでなく対話だったのかもしれない。知りたいことの半分も知れていないけれど、私の心は満たされつつあった。
「魔術師については、教えてくれないの?」
「……お前に魔術を教えることはできない」
「でもこの先、何も知らないままでは、いつか」
「逆だ。お前が魔術を知らなければ、その男は遠からずお前から離れざるを得ない」
その男、という言葉にぎくりと肩が震える。振り返らずとも感じる刺すような視線は先ほどから強くなるばかりだ。
「だが知ってしまえば、地獄の底まで利用されるだろう」
「……」
「令呪の魔力を頼りなさい。三画使い切るまでに、私も何か手を打とう」
父はそう言うと、また前触れもなく会話を締めにかかる。
「何かあったらすぐに連絡をしなさい。私もそうする」
「待って、お父さんはどうしてキャスターを」
「私が話せないときはキャスターをよこす。ではくれぐれも、戸締まりには気をつけるように」
やはり彼の説教は的外れだ。扉の内に獣がいるのに、戸締まりに気をつけたところで何の意味があるというのだろう。切れた通話に呆然としながら、得たばかりの情報を頭の中で煮詰めた。
「ロンドン……」
飛行機でおよそ十二時間。時差はたしか九時間ほど。イギリスの首都。霧と幻想をまとう町、ロンドン。惚けたまま、私はうかされたようにその町の名を呟いていたと思う。
どれくらいそうしていたかはわからないが、座り込んだ膝の頭に打ち付けたような跡がついているのを見て、私はようやく今の状況を思い出した。勢いよく振り返り、身構える。
けれど背後に王様の姿はすでになく、視線を横にそらしてみればいつの間にかベッドの上へ移動しているのが見えた。どうやらそんなことすら目に入っていなかったらしい。無言で布団に身を沈めている王様に、何を言えばいいのかわからずじりじりと近付く。
「寄るな」
「……王様」
「我を欲しがらぬ女を抱いてやるほど暇ではない」
これはもしかしなくとも、相当に機嫌を損ねている。低く発せられたその声は冷たく恐ろしいのに、どこか拗ねた子供のようで畏まることができない。
「ごめんなさい、王様、その……」
なんだかおかしくなってきてしまい、私は殺されるかもしれないと思いながらも口元に手をあてた。令呪に頼れと言われたって、こんな痴話喧嘩のような状況ではいまいち様にならない。
「何を笑っておる!」
「だって、なんか」
冷静になろうとすればするほど、怒涛の展開を思い返し笑ってしまう。笑っているうちに今度はいろいろな気持ちが感極まり、目の端から涙がこぼれた。一度こぼれ落ちると止まらず、続けて二粒三粒と落ちていく。おかしいのか悲しいのか、安心したのか寂しくなったのか、もはや自分の感情がわからない。そんな私を見て背を起こすと、王様はあからさまに眉をしかめた。
「何を泣く……落ち着きのない女だ」
表情のわりには優しい声だ。気のせいかもしれないがそれでもいい。私はベッドに腰掛けて王様の顔を正面から見た。滲む視界に映る彼の顔はやはりいつもより柔らかく見える。そのまま顔を近づけて、唇を重ねた。彼は私が目を瞑るまで薄目でじとりとこちらを見ていたけれど、小さく口を吸うと顔を傾けて応えてくれた。
しばらく浅いキスを続けるうち、だんだんと恥ずかしくなってきた私は、一度ほんのりと息を吐いて王様の首元に顔を寄せた。彼がいつもそうするように、鼻先をすり寄せて温もりを感じる。魔力というものは首から出ているのだろうかと疑問に思っていたが、たしかにこうすると心地いい。心身の一体感に魔術回路が共鳴するのだ。
王様は少しのあいだじっと私の腰に手をあてていたけれど、ふいに体を離し自分の服に手をかけた。裾を持ち上げこちらを見る。
「脱がせろ」
コートを脱がせるときのように、手助けをして部屋着の袖を引っぱる。彫刻のような体だ。欲情をするには美しすぎる気もするが、この体に抱かれると思うと自然と息が上がってしまう。機嫌は直っただろうか。ちらりと上目で確認すれば、予想以上に熱の篭った視線と通じ合ってしまい、全身が粟立った。
布団の上に倒れこみながら彼の熱を受け止める。執拗といえるほど丁寧にほどこされる愛撫は、私の心身の退路を一つずつ絶っていくようだ。所有物の形をたしかめるように、隅々まで探られ、私が少しでも躊躇えばぎろりと視線で制される。片腕のない彼の欲求をうまく補えと、指図されればつい、いつものように言うことを聞いてしまう。けれどやはり行為が進めば進むほど、私の心は弱った。
元から奥手な方なのだと思う。時間をかけて理解をし合った恋人ですら恐怖に近い羞恥がつきまとうのだ。いわんや、この王様相手ともなれば、私の小心は片手で捻り潰されてしまう。ぐずぐずにほどけた体の中を彼の指がかきまぜる。唇の隙間でまざり合う湿った息は、すでに魔力をたっぷりと帯びていた。いざ繋がったら、壊れてしまう。そんな恐怖に体はどうしても強張る。
「往生際の悪い」
王様はそう一言こぼし、指を引き抜くとその手を私の膝にやった。急に変わった体勢にまさかと思う間もなく、腰をあてがわれる。
「まって」
ほぐれきらないのなら実力行使だとばかりに予告なく突き込まれ、足の先がびりびりと痺れた。反射的に押し戻そうとする中を強引に割り進み、奥の奥まで一息に犯される。何かが腹の底から湧き上がり、全身を巡って目がちかちかとした。
「……っ、処女のように締めるな」
これが性的な快感なのか、魔力による刺激なのかもわからない。ただ大きな存在に飲み込まれる感覚に身が竦んだ。
「だめ……! 王さま、そんなに」
入らない、と訴えようとしたが喉が引きつり言葉が出ない。必死に感覚を閉じようにも、王様の魔力が容赦なく私の中へと流れ込む。
「やはり、開ききっていなかったか」
「ひらき……?」
「回路の話だ」
突かれるごとに肌の内側が明滅する。出会った日に呼び起こされた魔術回路は、未だ万全ではなかったらしい。細く流れていたそこに直接、濁流のような魔力を注がれているのがわかる。体中の回路を無理やり押し開かれる感覚に、ひたすら息が詰まった。
三日離れたことで弱まったと思った彼の魔力だが、こうして直に触れてみればそもそもの濃さが違うのだと気付かされる。きっとどれだけ枯渇していようと、この人の体を流れるものは他の生き物にとって毒になり得る。
「王、さま……!」
「ハハ、なかなか唆る。このまますべてこじ開けてやる」
「そん、な、ひどい」
「知らなかったか雑種。我は初モノが好きなのだ」
言うや否や腹をぐるりと抱え込まれ、彼に加減をするつもりがないことを知る。意識すらそう長くはもたないかもしれない。ぽたりと垂れる一粒の汗さえ、魔力を孕み心地いい。
終わる頃にはきっと体の仕組みを変えられている。伸ばした腕はやはり意味をなさず、彼の背中にあえなく縋った。