episode 21
みちの道連れ

悠久の時を生きる英霊が、これほど細かなリマインド能力を持っていると誰が思うだろう。とき折り覗かせる彼のこのような几帳面さには正直、驚きを隠せない。

『香は焚いただろうな』
『焚きました』

『香を焚け』
『焚いてますってば』

 どれだけ忘れっぽいと思われているのか、はたまた信用がないのか、結局彼は三晩にわたりきっちり十時にメールを送ってきた。
 予想以上に講習が難解ということもあり精神衛生上、彼のことはなるべく考えたくなかったのだが、おかげで毎晩王様のことを思い出さざるを得なかった。距離が離れてもたしかに感じる彼とのつながりが、令呪をつたいそわそわと肌を撫でるようだ。私がサーヴァントの存在を感じるように、彼もマスターを感じるのだろうか。
 腹が空いたと、飢餓感にまかせ私の首に噛み付く彼が、本当に望んでいるものが何かはもうわかっている。霊基の欠けたサーヴァントが本能的に求めるのはマスターとのより深いつながりだ。食欲や性欲や、ときに支配欲となりあわられるその欲求をいつまでも受け流すことはできないだろう。
 頭が火照る。体もじっとりと熱をもっている。冷たいリネンの枕に顔を埋め、無心になろうと努めるがうまくいかない。まるで恋のようだ。恋ならいくらか簡単なのにと思いながら、眠りの中に身を沈める。
 そういえば、昨日は久しぶりに夢を見た。よくは思い出せないが揺れていたのは花でなく、麦だ。泥の気配はどこにもなく、私は少し湿った草葉の上に座りこんでいた。心地のいい感触と、目のはしに靡く緑の髪。またあそこへ行けるだろうか。都会の夜とは対極の、柔らかな過去だ。

   *

 体が慣れる頃に終了となった三泊の研修は、泊まりがけで学ぶだけあり内容の濃いものだった。少しだけ重くなった頭と体を携え、家路につく。以前より交流の深まった同僚に別れを告げ、電車を降りると、三日離れただけの冬木の空気が妙に懐かしく、肌になじんだ。
「ただいま、帰りました」
 緊張しながらドアを開けるが部屋の明かりはついておらず、寝ているのかと思ったがベッドにも姿がない。買い物にでも出ているのだろうかと、荷物も解かずしばらくぼんやりしていると、玄関の開く音がした。
「なんだ、早いな」
「一本早い新幹線に乗れたので」
 コンビニの袋を揺らしながら靴を脱いでいる王様の姿に、妙に安心して顔をあげる。
 いつもの癖で彼のコートに手を伸ばしてから、その位置と距離に既視感を覚えた。自分が同じスーツを着ているせいか、出がけのことがついさっきのように思える。王様は気にするそぶりもなく慣れたように私の手助けを受け、するりとコートの袖から左腕を引き抜いた。廊下の明かりをつけていなかったことは幸いだ。赤くなっているだろう顔を俯かせながら、私は何かを言われる前に部屋へ戻る。
「お腹空いてますか」
「先ほど食べたばかりだ」
「私もです」
 本当は夕飯を食べる機会を逃していたが、なんとなく嘘をついてしまう。今日は早めにシャワーを浴びて、そのまま寝てしまいたい。部屋の隅でごそごそと旅の荷物を整理して、洗面所へと逃げこんだ。逃げるものを追うあの男の習性を知っているのに、どうしてもそのような挙動になってしまう。しっかりと鍵を閉め、息を吐く。
 温かいお湯を浴びて気持ちを落ち着かせ、たっぷり時間をかけて髪を乾かした。なんだかますます頭も体もぼわぼわとふやけた気がしたが、いつまでもここに閉じこもっているわけにはいかない。
 リビングに戻り、水を飲みながら、ちらりと王様の様子を窺った。クッションに寄りかかり、小さな音でテレビを見ている王様はこの上なくリラックスして見える。私のまごつきなど内心で小馬鹿にしているのかもしれないし、まったく気にかけていないのかもしれない。なんだか悔しくて、ペットボトルを持ったまましばらくのあいだ彼の横顔を見つめた。数日ぶりに見ても変わらず端正な顔をしている。
「もういいのか」
「え」
 王様は不意にそう聞くと、こちらを見ずにぷつりとテレビを消した。
「あ、はい。どうぞ」
 いつもは眠る直前にシャワーを浴びるが、今日は彼も早寝をするのだろうか。パス越しに感じる王様の魔力は三日おいただけあり若干心もとない。明日は精のつくものを作ろうと、保冷室の野菜を確認していると、王様の手が伸びてきて冷蔵庫のドアを閉めた。あやうく挟まれそうになり、驚いて見上げる──が、私はその目をすぐに逸らした。
 一瞬で彼の意図を理解してしまい、心臓が不整な脈を打つ。
「なんだ、もういいのだろう」
「お、お風呂のことじゃ……」
「随分念入りに身を整えていたな。焦らしたつもりか?」
 貴様にしては愛いことをする、などと揶揄いながら笑っている王様は、私が一人でぎくしゃくとしていたことなどもちろん知っているようだった。キッチンの隅へ追いやられ、みじろぎすらできない私に向けて彼はゆっくり手を伸ばす。
「待って、王さま」
「よこさぬか。枯渇している」
 食材などたしかめずとも、よほど効率のいい方法があるだろうと、王さまは私を見つめている。そんなことは私も知っているし、今すぐ応えてあげたい気持ちだってある。
「こちらを向け。口を開けろ」
 けれど、どうしようもない羞恥心でうまく体が動かない。彼は無理やり顔を掴みあげることはせず、あくまで私がそうするのを待っているようだった。私は一つ息を吐くと、小さく顎をあげ、うっすらと口を開ける。王様の満足げな表情が目に入り、それが間近へと迫る前に目を閉じた。
「ん……う」
 まるで獣に噛まれているようだ。この前よりもさらに無遠慮な行為に、涙がにじむ。
「は、少しは貴様も応えぬか。興が冷める」
 しばらく好き勝手に味わったのち、彼は顎にまでつたう唾液をぺろりと舐め、言った。
「期待をしていたのだろうが」
「趣味が、悪いです。帰ってきたときから、私が……」
 さんざん緊張して身の置き場をなくしていたことを知った上で、そんなことを言うなんて。
「帰ったときからだと? 阿呆か。三日だ」
「は」
「砕けそうな腰で、必死に背を向ける貴様の姿は見ものであったな。三日間、旅先でどのように欲を溜め込んだ」
 薄くなりはじめた鬱血痕にぴったりと唇を寄せ、彼がそんなことを言うものだから今度こそ全身から力が抜けてしまう。あまりの恥ずかしさに、あまりの情けなさに、心臓の内側から髪の先まですべて、王様の手の内に握りこまれたような感覚におちいる。
 悶々と悩まされた数日間の葛藤も体の火照りも、彼はすべて見通しているのだ。私の心は私のものだと思っていたが、もしかすると違うのかもしれない。そんな錯覚すら覚えそうになる。迫る体を押し返したかったけれど、ろくに力も入らず、これではただ縋っているだけだ。熱い舌が首から鎖骨へゆっくりと這っていく。数日かけて仕込んだものを、丹念に味わうようなそのやり方は悪趣味どころが悪徳だ。
「反応がよいな」
「ちが……」
「隠すな。触ればわかる」
 風呂上がりの肌を撫であげられ、とうとう膝からくずおれる。一度腑抜けた体はますます弛緩して、押し倒されるまでもなくキッチンの床にへたりこんでしまった。
「……これ以上、軽口を叩く必要はなさそうだな」
 彼は至極まじめな顔をすると「抱くぞ」と言って私を見据えた。この確認は彼の最大限の誠意だ。はあはあと力ない吐息だけが口から漏れ、それで充分な返答となってしまう。毎晩のように体温を感じ魔力を通わせているこの男を、もう拒めないことはとっくにわかっていた。
 服をたくしあげられ、普段見せない腹や胸にまで痕をつけられる。彼は少し不自由そうに片腕で私の体をまさぐると、耳元で熱い息を吐いた。興奮している。否応無くそれがわかり、つられて体が反応する。
 かたく目を閉じて、彼にすべてを預けようとした瞬間だった。
 無機質な機械音が鳴り響き、同時に二人、目を見開く。
 既視感を引き起こすそれはあの日と同じく、携帯電話の震える音だ。無理やり押し倒されたときと同じ体勢だが、今の私は気持ちが違う。それでも体は硬く強張った。さっと熱が引いて、指先が冷える。
「……こちらを見ろ」
「でも」
「意識を逸らすな」
「でも、こんな時間に」
 夜に電話をかけてくる知り合いに心当たりはない。立て込んだ仕事もないはずだし、一体誰が、と考えたところで一つの予感に思い当たる。
「貴様……」
「お願い」
 あり得ないという顔で私を睨む王様の下からなんとか這い出て、携帯電話を手繰り寄せる。登録外の番号が光っているのを見て、私は直感的に確信した。震える指で通話ボタンを押すと、案の定よく知った、けれどにわかに信じがたいその人の声がする。
「お父さん」
 呼びかけるのすら子供のときぶりの気がして、とたんに心が幼くなった。私はこの人と、ずっと話がしたかったのだ。


2018_03_27
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