聖杯、魔術師、サーヴァント。日常とはかけ離れた様々な知識が、私の世界に変革をもたらす。
「お疲れ様でした」
「お疲れ。例の要項、来週頭には渡せるから」
「はい……」
けれど、どんなに内面が変わろうとも私には日々こなすべき職務があった。魔術師も大変だろうが、社会人というものもそれなりにハードな生き物なのだ。
「遅い」
残業明けの金曜日、自分へのご褒美にと買っておいた缶ビールを、すべて飲み尽くされていたとあらば疲れもひとしおである。
「全部飲んじゃったんですか」
「貴様はしばらく酒を控えろ」
そう言われると反論ができない。私は曖昧に頷きながらよたよたとコートを脱ぎ、化粧を落とし、部屋着に着替えた。先日の買い出しで手に入れた多少値のはるルームウェアだ。王様が選んだだけあって着心地はよく、これを身に纏うといくらか疲れが和らぐ気がする。
仕方なしにミネラルウォーターを口にして、作り置きのおかずを温める。偶然にも今日は王様の好きなおかずばかりだ。彼は特別うまいともまずいとも言わないが、気に入ったときには「また作れ」と一言告げるため私は言葉通りまた作るのだ。
「王様、少しご相談があるのですが……」
「断る」
「なんでですか!」
狙ったわけではないが、そのようにして厳選された献立が机に並んでいたというのに、彼は意に介すことなく私の言葉を突っぱねる。
「下僕が神妙な面持ちで持ちかける相談など、聞いて良かった試しがない」
「そういうこと言う上司に限って、独断で動くと怒るんですよ」
「当然だ。相談など聞かぬが、独断で動こうものなら打ち首よ」
今の職場にもやっかいな上司がいないではないが、このようなブラック王朝の下で働く人間と比べれば大分ましと思わざるを得ない。ギルガメッシュ王といえば叡智と才覚により国を統治した名君の一面も知られるが、そこに至るまでの周囲の苦労は計り知れない。
「王様の安否にも関わることなんだから、ちゃんと聞いて」
その言葉にぴくりと眉を上げると、彼は金目の煮付けをほぐす手を止めこちらを見た。
「実は職場の研修旅行で数日間、家を空けることになりまして」
「研修だと?」
「はい……東京へ三泊四日」
先週決まったそのことを、どうにも言い出せずにいたけれどいつまでも先延ばしにするわけにはいかない。出発は来週にせまっている。
「断れ、そのようなもの」
「断れたら良かったんですけど……」
立場上、そして人員上、どうしても私が抜けるわけにはいかないのだ。それに王様のことがなければ、進んで受けたいくらいの内容である。環境を変えての学びは嫌いではない。
「やっぱり、きついですよね?」
理由なく断ることはできないが、家人の体調不良と言えば会社も配慮してくれるだろう。嘘をつくわけではないし、実際に私だって心配ではある。
「行って参れ」
「え?」
「香を炊き忘れるなよ」
「いいんですか……?」
「数日であれば問題はなかろう。だが気は抜くなよ」
王様はそう言うと、煮付けの骨を避ける作業に戻った。細かな動作をせず食べられるものが良いのではと、初めのうちは思っていたが彼は魚料理が好きだし、苦労しているところは見たことがない。左利きなのかもしれないし、両利きなのかもしれないし、特別に器用なのかもしれない。
「はい」
私は返事をして、急須にお湯を注ぐ。拍子抜けするほどあっさりと許可が出たことに驚きながら、細かな事情について考えた。部屋は個室であっただろうか。香を焚くのならそうでないと困る。
*
何事もなく週末が過ぎ、通常業務を数日こなした。
隠れてキャスターと会って以来、王様は私に一人で寝ることを禁じたため、ここのところは毎晩隣で眠っている。王様はとき折り寝ながら私の方へ寄ってくるので、目覚める頃には壁と王様のあいだに挟まれている日もあるが、ベッドだけは良いものをと家を出る際に奮発したかいあってか、睡眠は深くとれていた。王国や花畑どころか、近頃は他の夢もみない。
「じゃあ王様、くれぐれも食生活には気をつけてくださいね」
忘れ物はないかとキャリーバッグを開け閉めしながら、王様に声をかける。魔力の供給が最小限になる以上、彼の体調は食と睡眠にかかっている。べつにペットを置き去りにするわけではないのだから彼だって自分でどうにでも出来ようが、以前家を空けた際、食事をさぼり、抜け殻のようになっていたことを思うとやはり不安だ。
「わかっておるわ。小煩く言うな」
「はいはい」
作り置きのお惣菜も、市販の加工食品もあるし、食材も充分に冷蔵庫に入っている。なんといっても、いまは通信手段があるのだ。いざとなれば仕事を切り上げて戻ってくることもできる。過保護な気遣いかと思うが、普段何気ない顔をして日常を過ごしているこの男が、今も夜な夜な、苦しげに喘いでいることを知っている。毎晩一緒に寝るようになって、彼の容態に未だ波があることを痛感した。伝説の王をここまで苦しめる聖杯戦争、そして聖杯のあなとは一体何なのだろう。
考え込み、止まっていた手を握りしめ気をとりなおす。ひとまずは、己の本分である社会人としての責務をまっとうしなければいけない。パンプスを履き振り返ると、珍しく見送りに来てくれたのかすぐ背後に王様がいた。ドアを開け「いってきます」と挨拶をする。
彼は少しだけ首を傾けると、こちらへ手を伸ばし、敷居越しに私の腕を引いた。
「補給だ。三日分よこせ」
「王さ」
ま、と言い終わる前に口を塞がれる。
無防備に浮かせていた舌を掬われ、全身に熱とも寒気ともつかないものが走った。あのとき散々味わった、粘膜を通じての直接的なつながりだ。魔力が口内に飽和して、頭の芯がくらくらとしてくる。彼は私の体をドアに押しつけたまま、しばらくのあいだ好き勝手にキスを続けた。しだいに足が震え、踵がぱたぱたと鳴る。このままでは息も理性ももたないと思い、押し返せば王様は最後に私の首に顔を寄せ、強く吸った。
「……っ」
とどめを刺されたような気分だった。座り込みそうな膝をなんとか奮い立たせ、キャリーケースのとってを引き寄せる。ボタンを上まで留めればぎりぎり見えない位置だとは思うが、まったくもって趣味が悪い。乱された襟口を整え、王様をきつく睨んだ。
「よく学べよ。労働者」
あっけなく閉められたドアの向こうで、最後まで妖しく光っていた赤い目がいつまでも頭から離れず、私は力任せに駅までの道を急いだ。ごろごろと鳴るケースの音ですべてかき消してしまいたい。離れても感じる彼との繋がりが、いまは無性に憎く思える。