髪を滑る指の感触がする。私は目を閉じたまま、夢とうつつの境でそれを感じる。王様は明け方によくこうして私の髪を撫でた。眠りの浅くなる時間帯に、無意識でする手慰みのようなものなのかもしれない。彼が起きているのかそうでないのか、寝たふりをしている私にはわからなかった。気になったけれど、振り向いて確認をすればもう次からはしてもらえない気がして、素知らぬふりをしているうちにいつも本当に眠ってしまう。
翌日になれば彼の態度は相変わらずぞんざいで、やはり夢だったのではないかと思える。以前は忘れてしまおうと努めていたその一瞬を、今は大切に、心に留めていた。
*
お世話になった先輩の昇進祝いということで、久しぶりに羽目を外した自覚はあった。
いいワインを注文し、せっかくだからとシャンパンを開け、酔いが回ってきた頃に先輩が日本酒を注文した。彼女の地元の銘酒だという一升瓶を、みんなで飲み干そうと躍起になって注ぎ足すうち「綺麗なお酒」のボーダーラインを一歩、超えてしまった。
吐き気こそないものの酩酊直前であった私は、解散後すぐにタクシーに乗り、うんうんと唸りながらなんとか部屋の前まで辿り着く。問題はこれからだと、打開策を練りたかったが酔った頭ではろくに考えもまとまらず、開き直った気持ちで鍵を開けた。
「表へ出ろ」
案の定、玄関へ踏み入ったとたんそう言われ、たじろぐ。遅くなることはあらかじめ知らせてあったし、週末に飲み会が入ることは今までにもあった。けれどここまで深酒して帰るのは初めてのことだ。
「なんだその醜悪な匂いは……」
王様の声がぼやぼやと遠くに聞こえ、意味を理解することに時間がかかる。彼はどうやら私の匂いに辟易しているらしかった。たしかに今日は喫煙者が多く、居酒屋ではずっと煙にまみれていた。そのうえ口からは日本酒の匂いがもうもうと漂っているはずである。
「すみま……でも……ふとん」
思い付くまま言葉を発してみるが、どうにも会話にならない。彼は無情にも私の体をドアの外へ押し出すと、頭を冷やせと言いつけて鍵を閉めた。酷いと思ったが、今の私にはこれがどれだけ理不尽であるのかも判断できない。当たり前のことかもしれないし、やっぱり酷いのかもしれない。わかることといえばただ一つ、今の私に必要なものはふかふかのベッドであるということだ。
締め出されたところで鍵は私が持っているため、めげずにもう一度解錠する。それを予想してかすぐそこで待ち構えていた王様は、怖い顔をしてふざけるなと怒鳴った。
「いれてください」
いやいやと首を振りながら、私を追い出そうとする王様の体に縋りつく。
「おねがい王さま……もういれて」
「おかしなことを口走るな、犯すぞ!」
とにかく冷たいコンクリートに座り込むことだけは避けたく「いれて」と繰り返しながら、王様の胸板にぎゅうぎゅうとおでこを押しつけた。
「貴様のような女は外だ」
「外、いや」
「ほう、中がいいのか?」
「はい」
「では愛らしくねだってみよ」
「中に、いれてください。王さま」
「ふむ……寝台であれば唆る台詞よな」
何かおかしなことを言わされている気もするが、しばらくのあいだ私にねだらせて満足したのか、彼は廊下を塞ぐことをやめ、部屋の奥へと戻っていく。ほっとして靴を脱ぎ、揺れる視界の端になんとかベッドの存在をとらえた。本能のまま倒れ込もうとするものの、今度は後ろから襟を掴まれ、首が絞まる。
「ぐぇ」
「まさかその臭気のまま、我の寝床に入る気か……?」
そもそもこのベッドは私の物だ。そう思ったけれど、今さらそんな理屈が通じないことは酔った頭でもわかる。
「じゃあゆかで……」
このさい贅沢は言わないので横にならせてほしい。へなへなとしゃがみ込んで目を閉じる。王様の指が顎にかかり上を向かされた気がしたが、もう反応を示す余力がない。
「このような女は抱く気にもなれんな」
いろいろな意味で聞き捨てならない言葉が聞こえたけれど、すべてが億劫だった私は彼の手を押しのけ、そのまま溶けるよう倒れ臥した。
「おい、その燻された服を脱げ。臭くて敵わぬ!」
王様が何かを言っているが、もううまく聞きとれない。今日は重力が何十倍にもなっているようだ。フローリングにぺったりと頬を付けながら、目眩の海に沈んでいく。ゆらゆらと遠くの水面で王様の声が揺れている。明日の自分を憂う間もなく、眠りの底へと到達する。
*
足腰が痛む気がして、目が覚めた。
踵に感じる硬い床の感触に違和感を覚え寝返りを打つと、すぐ目の前にテーブルの脚が見えた。
そういえば、昨夜はひどく酔っ払って帰ってきたのだ。体の重さから己の状態を思い起こすが、部屋に着いたのち、どのようにして床で眠るに至ったのかは記憶がない。王様に怒られたことはなんとなく覚えている。私は力尽きてここで横になった気がするのだが、だとしたらこの布団は王様がかけてくれたのだろうか。
「おはよう、ございます」
掠れた声で挨拶をし、身を起こす。壁側を向いて寝ている王様は、まだ目覚めていないようだ。ベッドを覗き込もうかと迷ったところで、妙にお腹がすうすうとすることに気が付いた。
着ていない。上どころかスカートも、ストッキングも、キャミソールすら着ておらず、かろうじて下着だけを身につけた状態で私は布団に包まっていた。ただでさえ酔いの抜けない頭から、さっと血の気が引く。王様が起きないようにゆっくりと立ち上がり、洗面所へ逃げ込んだ。
混乱した頭で洗濯機の中を覗けば、昨日着ていた服一式が投げ込まれているのが見えた。ますます思い悩んでしまうが、いくら悩んだところで自ら脱いだか、脱がされたか、真実は二つに一つだ。そして私には確信があった。どれだけ酔っ払っていようとも、私はウールのセーターやフレアスカートを洗濯機に入れたりはしない。つまるところ、やはり──。
「まったく、片腕の我に手間をかけさせおって」
背後から声がしてびくりと振り返ると、寝起きの王様が気怠げな顔でこちらを見ていた。とっさにタオル掛けのバスタオルを引き寄せて、体を隠す。
「最も、貴様は途中から協力をみせたが。男に脱がされ慣れておるな。寝台では従順なタイプか」
嫌な角度で唇を上げながら、王様は私の横を通り過ぎる。青かった自分の顔が急速に赤くなっていくのが鏡越しに見え、思わず下を向いた。
「ふん、何もしておらぬわ。抱いてやってもよかったが何せ煙くてな。あのような肌には顔を寄せる気にもならん。……まだ酷いぞ、早く湯を浴びてこい」
彼は私の方になど目もくれず、口と左手を使って器用に包帯を巻き直している。記憶をなくすほど酔ったのはひとえに私の失態だが、あまりにデリカシーのない言動に頭の中がぐつぐつと煮えた。
「シャワー浴びるので、早く出てってください!」
「気にせず脱げ。ほとんど見た」
「……!」
「どれ、また手伝ってやろうか? そういえば昨夜は、我慢できないから入れてほしいなどとのたまいながら我に縋りついてきたなあ」
にやにやと笑うこの男は、人を辱めることに関して天賦の才を発揮するようだ。
「誤解を招く言い方しないで!」
「噛み付くな。雑種の無礼を、広い心で受け流した我の寛容さに感謝せよ。何度か宝物庫の鍵を開けかけたぞ」
「そ、そりゃ迷惑はかけたかもしれないけれど」
「いい思いをしたとでも言いたいのか? そのような体、眺めたところで手間賃にすらならん」
「どうしてそんなに次から次へと嫌なことばっか言うんですか!」
「わかっておらぬな。我が軽口を止めたら、貴様に逃げ場はないぞ」
「……どういう」
意味ですか、と聞こうとしてやめる。王様の雰囲気がわずかに変わった気がして怖くなったのだ。私は会話もそこそこにバスルームへ飛び込んで、ドアを閉めた。
彼が洗面所を出て行くのを確認し、ほっと息をつく。たしかに、次おかしな空気になれば彼は躊躇いなく私に迫るだろう。逆にああして言葉で揶揄っているうちは、その気がないということなのだ。屈折した関係性に頭が痛くなるが、二日酔いのせいということにして流すのがよかろう。
風呂から出ると、王様は何事もないような顔をしていつも通りクッションに背を預けていた。しょっぱいものが飲みたかった私は、インスタントの味噌汁をお湯で溶きながら尋ねる。
「ワカメとあおさ、どっちがいいですか」
「揚げ茄子はないのか」
「揚げ茄子は王様が最初に全部食べちゃったので」
「……どちらでもよい」
味噌汁の具で言い合うくらいの関係が、今の私にはちょうど良い。王様だってそこに大きな不満はないのだと思う。だから私のたまの醜態も許すし、溜まりそうな欲があれば悪舌に変えて発散するのだろう。それはきっと彼なりの気遣いだ。好意的な解釈かもしれないが、好意くらいは持っているのだ。少なくとも青さの味噌汁にお湯を注ぐくらいには。