魔術は確かに便利だが、魔術を使えない人間が生み出したものこそが科学だ。文明の利器は魔術師にも、そうでない者にも、そしてサーヴァントにも平等に真価を発揮する。
「これ、王様用の」
仕事帰りに契約してきた携帯電話を差し出すと、王様は珍しく晴れやかな顔をして赤い袋を受け取った。
「我が動けぬ以上、通信手段は必要だ。よい仕事をしたな雑種」
「お金は王様の資金から出してるし、好きに使ってくれてかまわないけど……」
生きていくにはお金がいるが、お金だけでは渡れないのが世の中というものだ。
「名義は私なので、法は犯さないでくださいね」
一応のところ確認するが、王様は「ふむ」と相槌のような生返事のような声をもらしたきり顔を上げない。梱包を解き、いそいそと初期設定をする彼を見て、この男はもうかれこれ長く現世にいるのではと予想した。
「聞いてますか?」
「何をだ」
「だから、いくら王様がこの国に籍を置く人間じゃないとしても、私の家に住み込んでいる以上、法に触れるような真似は」
「ふん、我に法を説くか小娘」
彼の表情は王の威厳に満ちているが、携帯電話の保護シートを剥がしながらする顔ではないだろうと思う。
「安心せよ。無闇やたらと事を荒立てるつもりはない。だがそれも、我の許容の内であればこそ」
「許容?」
「我は我の意に沿わぬものを許容するつもりはない。それが人であれ法であれ、我の領域を侵さんとするならばこちらから侵し尽くすまで」
「で……でもこの国は一応法治国家なわけですから」
「は、法治国家とは笑わせる」
一笑に付しながら、やはり彼は手元の作業を続けている。私を説き伏せるなど、彼にとっては片手間以下のことなのだろう。
「法律とは、一律でなければ意味を成さぬ。この国の人間どもは自らの意思で過去の英霊に縋ったのだ。その時点で現世のルールなどは破綻していようよ」
そこまで言うと、彼はようやく顔を上げパタリと端末を置いた。
「我がそれに従う義理はない。そも、王とは法を定める者にして、法の外にいる者だ。裁定者たる我を裁くことなぞ現世の人間にできはせぬ。法の上位に位置する者。それが我であると心得よ」
彼の理屈は傲慢だが、否定できるかというと難しい。何かを言おうにも目がちかちかとして二の句が継げなくなる。自らをルールとする者にルール違反を説いたところで、勝ち目がないことは明白だ。
王様は告げたいことを告げて満足したのか、またかちこちと携帯電話をいじりはじめる。クッションを背にリラックスしているその姿は、薄目で見ればそこらの若者と変わりない。けれど隠しきれない圧倒的な自我が、常に辺りへ放出されているため、ちぐはぐさで磁場が歪みそうだった。
王様の番号を電話帳に登録しながら、彼とありきたりな繋がりを一つ持ったことに、なんともいえないこそばゆさを感じていた。
*
王様の調子が上向いていることを知ったのは、それからしばらくが経った週末のことだ。
「あれ、王様。お酒飲んでるんですか」
仕事から帰ると、彼は缶ビールを傾けながら私の買った情報誌をぱらぱらとめくっていた。
「たまにはな。雑種らの飲む酒など王の口には合わんが」
ちゃぷりと缶を回し、王様は珍しく柔らかな表情で目を伏せている。
「この冷えた麦酒はなかなかどうして、好ましいではないか。品質はともかくとしてこのようなものを安価で大量生産し、労働者のささやかな楽しみとするとは合理的な戦略よ。上手いことを考えた酒屋もいたものだ」
「なんか王様……そうしてると普通のお兄さんですね」
コートをクロークに掛けながら、ついそんな感想を漏らしてしまう。ラフな部屋着に缶ビール、手元に置かれた携帯電話などを見ていると、どうしても認識が視覚情報に寄ってしまうのだ。
「は?」
「あ、いえ」
「たわけ! 王をそこらの雑種と一緒にする奴があるか!」
「わ、悪い意味ではないです。王様の輝かしさは充分に存じています」
そもそも造形からして平凡さからはかけ離れているし、われながら普通は言い過ぎたと思った。この男はあらゆる面において過激であり苛烈である。
王様は形ばかり声を荒げたが、機嫌がいいのかすぐに口角を上げた。
「まあよい、貴様も飲め」
元から私のですよ、と言いかけてやめる。ガラスのコップに六分ほど注がれたそれを一口二口飲み下しながら、ぼんやりと王様の横顔を眺めた。
「何を勝手に見惚れておる。王の尊顔を民がおいそれと眺めるものではない」
「私、王様の民じゃないですし」
「ほう、では敵か?」
「敵じゃないです!」
味方だ、と言おうとしてなんとなく口をつぐむ。言葉だけでは薄っぺらい気がしたし、言わなくともきっと彼はわかっているのだと思う。
「夢の中であろうとも、あの国の土を踏んだのなら我の民だ」
王様の言葉に、最近見ることの減っていた王国の夢がまた心をかすめた気がした。
「あの国でも、ビールを飲みましたか」
「王であれ民であれ、麦酒を好まぬものはいなかったな」
金色の麦畑。乾いた風。生成りの布が膨らんで、人々の生活をはたはたと彩っている。あの国で飲む麦の酒はさぞ豊かな風味であっただろう。
「惚けておらずに何か出さぬか。王の美貌を酒のアテにしようなど五千年早いぞ」
その自信はどこからくるのか、彼は尊大に脚を組むとキッチンに目をやった。決して王様に酔いしれていたわけではないが、たしかにつまみは欲しい。
「チーズとトマトでいいですか」
「うむ。胡椒をふれよ」
古代の王とありふれた週末を過ごすことは、私の知らない誰かにしてみればきっと驚くべき贅沢だ。けれど私にとっては日常となりつつある。
知らないからこそ過ごせるのだろうこの時を、今しばらくのモラトリアムとして二人、日々の寝食をともにしていく。