数日間の不摂生とストレス、加えて聖杯の残滓とやらに魔力を吸われたこともあり、私の体はずたぼろだった。
「これを食え」
出された皿には香草とともに煮込まれた粥が入っており、まるでいつかの逆だと思う。王様の作る料理はやはり美味しく、体の奥に染みる滋味深さがあった。
「貴様がそれでは埒があかぬ」
「そうですね」
「早いところ吸収しろ」
そうしたいのは山々だが、どうにも体が重くてしょうがない。お風呂に浸かり温まっても気怠さはとれず、それどころか妙に目が回って視界がくらんだ。
「何をしておるか」
洗面所の床でうずくまっていると、王様がやってきて呆れたようにそう言った。立ってリビングへ行きたいのに、冷や汗ばかり出て力が入らない。胃の奥が焼けるように熱く、息をするのがやっとだ。
「おなか、いたい」
「……あの粥は滋養に効く妙薬を入れている。一晩眠れば、魔力も体力も回復する」
自分の体が人並みの繊細さを持っていたことを実感しながら、ぐったりと王様に身をあずけた。父親のことも、恋人のことも、キャスターのことも、同じくらい私の心にのしかかっていたが、一番に思い患ったのは目の前のこの男だ。けれどいま頼れるのも彼だけなのだから仕方ない。
王様は器用に片腕で私を抱えると、そのままベッドへ放り、香を灯し、電気を消した。
「寝ろ」
「はい」
「我も寝るが気にするな」
このあいだの今日で、一緒に寝ようとする王様の神経はやはり常軌を逸しているが、もはや異論を唱える力は残っていない。それに身を寄せていると楽なのは私も同じだった。魔力がゆるゆると行き来をして、しだいに濃くなるのを感じる。
数日離れ、空になりかけた魔力を、私を助けるために振るったのだ。ただでさえ軋んでいるという王様の霊基が今どんな状態なのかはわからないが、ベッドに入ったとたん彼はふつりと意識を落とした。傷付いた動物のよう互いに身を寄せ合って、私たちは夜を越す。
あり得ぬほどの弱体、と彼は言っていた。いつか万全の王を見られるときが来るのだろうか。きっと雄々しく、美しいに違いない。獅子のような姿を想い、金の髪を梳く。金色の魔力が指先をつたい、体へ溶けるのが見えるようだ。
*
「恋人とは別れました」
「そうか」
白湯を飲みながら告げた私に、王様は一言相槌をうったきりだった。手元のページに目をやったまま、とりたてて空気を震わせることなくリビングの椅子に座っている。
近頃は私が大学時代に使っていた教科書や専門書を繰っていることが多い。感覚が鋭敏化しているのか、以前からテレビやオーディオを付けるとうるさいと言われることが多いので、私も静かに過ごすことに慣れてきていた。
「はっきり言いますけど、半分は王様のせいです」
きっと言っておかないといつまでも恨むことになるので、ここでぶつけてしまうのが吉だと思う。王様はその言葉にわずかに視線を上げ、本を閉じた。片腕では読みづらいだろうに、彼はなんでも器用にやってのける。
「でも半分は私のせい」
この男相手に機嫌をとったり、謙遜したり、曖昧に濁すことはきっと逆効果だ。思いのままを口にして、思うがままの反応を享受するのが一番良い。もちろん、全てを晒すわけではないけれど。
「どちらにせよ貴様は結局、我を選んでいたであろうに」
「……そうせざるをえない今日までの流れを鑑みて、トントンってことです」
私がすべて悪い気もするし、全部王様のせいな気もする。けれどそんな考えはどちらも逃げだ。だから半々で、相殺して、前へ進むのだ。
「まあなんでもよい。王自ら調達してやったこの食物を、さっさと胃に流し込まぬか」
驚くべきことに、会社に欠勤連絡をして私が二度寝をしているあいだ、この王様は自ら買い出しに赴いてくれたのだ。胃痛を患う人間にアイスを買ってきたことには驚くが、その他はうどんやゼリーやスポーツ飲料など消化に良いもので、意外にも看病というものを心得ていると思った。
「ありがとうございます。王様のお粥のおかげでもうだいぶ良いのですが、今日はこれを食べてゆっくりしますね」
「当然だな。あれは我が宝物の中でもなかなかに貴重な草なのだ。無駄にせず魔力に変えろよ」
得意げに頷く王様の言うとおり、妙薬が功を奏したのか、胃の痛みも体の怠さもだいぶ和らいでいた。彼に通じるパスの感覚もだんだんとしっかりしてきている。令呪の色も心なしか昨夜より鮮やかだ。
「花の魔術師……キャスターが、夢に出てきました」
ふいに思い出したことを口にすると、王様はやや表情を硬くしてこちらを見た。
「……あれは夢魔だ。そういうこともあろう」
「夢魔、ですか」
「何も許すなよ」
「許すって?」
王様の気配が一瞬にして張り詰めたのを感じ、身構える。縄張りに踏み入られた獣が反射的に耳を倒すように、私には見えない何かを警戒している様子だ。
「心も体もだ。夢魔は女にとりいることを得意とする。一度預ければその魂、返ってこぬかもしれぬぞ」
王様はキャスターを敵と認識しているのだろうか。サーヴァント同士の関係性というものは、そもそもの目的を知らない私にとって予想がつかないものだ。彼らが現世で果たそうとしている目的が、互いに噛み合わぬものだとしたら、いつか私も立場の選択を迫られるのかもしれない。
王様にとってどうであれ、私にとってキャスターは味方だ。そうであって欲しいと思っている。
「あの魔術師は独自の権限を持ち過ぎている。味方であれば使い様もあるが、あれを味方にせねばならん状況などあと数千年は御免だ」
「王様は……どうしてこの世に喚ばれたんですか?」
疑問を口にすることはそれほど難しくなかった。遥か彼方の時代からきたこの人に、問いを投げることを私はそう恐れていない。その点においては、肉親よりもよほど率直になれるのだから不思議だ。
「くだらぬ理由よ」
聞き流されると思った疑問に、王様は意外にも真摯な返答をくれる。
「人の欲のためだ。過去の英雄など、現世の魔術師にとっては一騎の武力に過ぎん。呆れた傲慢さだが、私利のため手段を選ばぬその精神、まさに私欲の極地ではないか」
やはり彼らは、現世の魔術師の都合により召喚されているのだ。
「おかげで我も退屈をしない。貴様も何か願ってみるか?」
「願う?」
「その機会がくれば教えてやろう。まあ、貴様が生きているうちに訪れるかもわからぬがな」
彼は再び本を開くと、ぞっとするほど妖しい色を目の中に宿し、嗤う。
「何にせよ、過ぎたる欲は泥と同じだ。すべてを呑み込み腐らせる」
「……」
「貴様の腐る様は見苦しかろうな」
まるで愛でるような侮蔑だ。部屋は再び静寂を保つ。私はそれ以上何を言うこともできず、冷めていく湯の表面をじっと見つめていた。