香り、だけではない。目に入るのは一面の薄紅だ。あたりに広がる可憐な花たちは風もないのにさやさやと揺れ、光のような、温度のような、魔力のような、如何とも表しがたいものを周囲に放出している。
「君が来る予感はしていたよ。でも──」
彼は花のようなため息をつき、長い髪を靡かせる。
「よりにもよってあの王様と一緒とは……さすがに予想外だ」
そこで私は気が付いた。これはこの前の夢の続きではない。
かつての記憶が夢の形をとって再現されているのでなく、今まさに私へと向けられた言葉であり、表情だった。
「キャスター?」
「やあ、息災かい。あの王のもと息災ならそれは奇跡だ。まあそうでないから、私の令呪を使ったのだろうけど」
彼が私の右手に視線を向けたため、私も改めて手の甲を見た。一部が掠れた紋章は、掠れたことで初めて左右対称になったようだ。これを見て王様は何と言ったのだったか。
「君の父上は元気にしているよ。ただ……彼は自分のことを話すのが苦手でね。人の親としてどうかと思うけれど、魔術師としてはこの上なく優秀だ。君もその血を引いている」
父はまだあなたといるの? どこで何をしているの? 会いに行くことはできる? 聞きたいことはたくさんあったけれど、思うように声が出ない。
「引いているのだから育てるべきと、私は思ったのだけどね」
「……あなたは」
「これは私のちょっとした気遣いさ。そうだな、返事の代わりとでも思ってほしい」
渡した覚えもないのに、彼は私の携帯電話を手にしていた。父宛のメールに目を通し、少し困ったような顔をしている。
「いいかい。あの王様を、信じ過ぎないこと。でも裏切るのは絶対に駄目だ。難しいが頑張ってくれたまえ」
「待って」
背を向けるキャスターを追いたかったが、足を覆う花たちがそれを許してくれない。花も泥も寄せ付けるな。王様はいつだかそう言ったが、たしかにこれは似た類だ。気を抜けば絡めとられ、心まで埋め尽くされてしまう。
こんなものを返事とされては困る。私が尋ねたのは父だ。キャスターのことを父から聞き出したいのに、これではまるで逆だ。王様とキャスターは対極の雰囲気だが、一方的なコミュニケーションを当然とするところはよく似ている。呼びかけようと大きく息を吸ったところで、どこからか電話の音が聞こえた。伸ばした腕がぐにゃりと歪む。
彼が持っていたと思った電話は、すぐ耳元で鳴り続けていた。縋るように画面を見た瞬間、現実へ引き戻される。ここは最果ての花畑ではない。板に区切られた簡素な箱だ。そして画面には父でなく恋人の名が表示されていた。何を知るより先に、話すべきは彼だろう。
私は荷物をまとめ、会計を済ませると、雑居ビルの隙間で恋人に電話をかけ直した。無意識に泣いても平気な場所を選んでいることに気付き、泣きたいのは彼の方だろうと首を振る。
隠していたことがある。この先も言うことはできない。勝手だけど別れてほしい。
通話口の向こうの彼に、私はなんとかその三語を発し反応を待った。手早く終わらせようとしているだけなのではと、罪悪感で胃の奥がひりひりするけれど、どうあってもこれ以上長引かせることはできなかった。保身をせず率直に、告げるべきことを告げるならこれ以外の言葉はない。
「まともな状況とは思えない」
「……」
「怒ってるし、引き止める気はない」
「うん」
「……でも心配だから、やばいときは誰かに相談しろ。俺以外な」
彼はそう言った後、一呼吸してから「まあ他にいなかったら、俺でもいいけど」とこぼした。本当に人がいい。この先、彼以上に優しい人とは出会えないと思う。例えいつの世の英雄でなくとも、この人は万人の持ち得ない魂を持った人だ。名を残すことだけが人間の価値ではないのだ。そんな当たり前のことに気付いてなお、私は彼を切り捨てる。同じく歴史に名を残さない私が、身の丈に合わない選択をするのだ。
電話を切った後、残されたのは静寂と少しの震えだった。泣いたため体温が下がっている。現実はやはり暗いコンクリートの色をしている。ぼんやりと壁を眺め、冷えた指先を擦り合わせた。立ち上がって、どこかしらへ向かわなければいけない。でも、もう少しだけ、と俯いたとき、非常ドアの前で何かが揺らめくのが見えた。こんな場所でも人の目はあるのだと驚いて、頬を拭う。
羞恥心と所在なさで目をそらす私に、何者かはゆっくりと近づき──止まった。
人の大きさではない。それ以前に造作が異常だ。
顔を上げた私の目に飛び込んできたのは、夢以上の非日常だった。非常灯に照らされたその物体は、言うなれば大きな「腕」だ。不恰好な肉の塊のようなものが、五本の指を携え蠢いている。
あまりの異様さに硬直するが、その指がぐらりとこちらに傾いた瞬間、本能的に身を翻していた。すんでのところで跳び退くものの、避けきれなかった肉塊が脚に絡みつく。体を走る魔術回路がうっすらと光り、状況は何一つわからないまでも、この生き物とも呼べない何かに魔力を吸われていることは理解できた。
それだけでなく、体すら徐々に引きずられ肉の中へ飲み込まれていく。夢に見た黒い泥と、見た目は違うが同じ気配を感じた。爪先の感覚がすでにない。彼は「あな」と言ったが、私もそんな場所へ引きずり落とされてしまうのだろうか。下半身にのしかかる生温かさが、徐々に胸の方へ這い上がり、私は右手を握りしめた。「魔術師としては優秀。君もその血を引いている」彼はそう言っていたが、やはり使い方を知らなければ意味がないのだ。
「何を、おかしなものに跨られている」
聞こえた声の冷静さと、その裏にある怒気が令呪にぴりぴりと共鳴し、塊が一瞬怯んだのがわかった。肉を貫く音が数度鳴り、圧迫感が弾けるように散る。
「我以外のものに魔力を分け与える余裕が、貴様にあるのか?」
「王さま」
「同じ場所へ行くなと言ったであろうが」
そうだろうか、と思い返し、そういえば昨日家へ戻ったときにそんな忠告をされたかもしれないと思う。
「欠片とも呼べぬ聖杯の残滓が、おかしなものを育てる頃だ。貴様は今、我の魔力が染みている。あれは我を求めていたからな」
彼はそう言うと階段に座り、倒れ伏す私を見下ろした。どうやってあの異形を追い払ったのかはよく見えなかったが、弓兵というくらいだから何かしらの武器を持つのだろう。
「香を忘れずに焚きしめておけ」
「香?」
「あれは蟲除けでもある」
「どうしてここに」
あっという間の出来事だったため、命の危機すらうまく実感できず、私にはまずそちらが気になった。
「どうして王様が、ここにいるんですか。なんで私の場所が」
「何故いるか。何故わかるか。そんなことは貴様に教えることではない」
数日会わずとも彼の性格は変わらない。もっとも数日で変わるくらいなら、遥か古代に改善しているだろうが。
「わかりました。じゃあそれは聞きません。代わりに、王様が隠している大事なルールを教えてください」
「ルールだと?」
私はなんとか立ち上がり、出会った夜のように無機質な顔でこちらを眺めている王様を見た。今はまだ逆境の只中にいるため、恐怖心がない。実感が伴ってしまえば立っていることもできなくなる。脚が震えだす前に、私はここ数日のあいだに考えていたことを口にする。
「……王様が今までに教えてくれたルールは、どれも魔術師側の都合に寄っていると思った。それならマスターとサーヴァントの間にも相応のルールがあるはずです。そうでなきゃ、圧倒的な力の差をもつ者との間に使役関係なんて成り立たない」
王様は私の言葉を聞くと、首を傾けて少しのあいだ黙った。何かを考えているような、何も考えていないようなしんとした表情だ。
「令呪は魔力の源であると言ったな」
「……はい」
「名の通りこれは令する呪い。貴様個人の能力と関係なく、サーヴァントにとっては絶対のものだ」
なんていうことのない顔で言いながら、彼は古傷を掻くように腕のあったところをさすっている。腕を組みたいのかもしれない。中身のない袖口はだらりと地へ垂れるばかりだ。
「令呪に願えば、王様を操ることもできるんですか?」
「マスターと契約を結ぶとはそういうことだ。無論、際限がないわけではないが」
右手の甲をもう一度見る。放つとともに掠れた紋は、つまり行使の回数を示しているのだろうか。
「どうして教えてくれるんですか」
「貴様が言えといったのだろうが」
「そうだけど……」
どこまでの命令が適用されるのかはわからない。けれど彼にとっては文字どおり死活問題であるはずだ。弱みを晒すことを厭う彼が、唯一にして最強の搦め手を暴露するなど考えられないことである。
「我が怖いと言ったな」
「はい」
「良いことだ。王への畏怖は常に携えておけ」
「言われなくとも。こうして助けてもらったって、王様が怖いことに変わりはありません。……王様は、この前のことを」
一体どう思っているのだろう。ただの遊びか、気の迷いか。それとも──。
「我は過去など省みぬ。己が行動に自責の念を抱くことは滅多とない。同じ心持ちになれば、また同じことをするであろうな」
「……」
「そのときは好きに抗え。だが、他の者の残した呪などには頼るな」
階段を下りながらそう言うと、彼は私の前に立った。令呪を見据えるその目を見て「一画多い」と言った彼の言葉を思い出す。
あと何画残っているのだろう。一歩後ずさり、先ほど引きずられたコンクリートに視線を落としたとき、ふと当然のことに気が付いた。彼はあのわけのわからない肉塊とは違う。私と契約をした、私のサーヴァントだ。
どうして彼が私に致命的なルールを教えたのか、急に理解できた気がした。私はきっと、いつでもこの人を殺せる。彼はそれをわかっている。
「そんなのずるい」
「ようやく知ったか。サーヴァントと魔術師の負う業を」
力関係の対等さとは、強制的な絆のようなものである。私に命を握らせたこの男のことを、私はもう裏切れない。
「王様はずるい。いつも勝手なタイミングで、勝手なことばかり言う」
人を弄んだかと思えば、したり顔で核心を突き刺し、満足げに笑うのだ。性格が悪いし趣味が悪い。でもときには彼にだって間違いがある。彼の決定、そのすべてに従ってたまるものかと思う。
「私はキャスターに惚れていません」
「だがそれは執着だ。恋と何が違う?」
「違います。王様がどれほど優れた裁定者だとしても、人の気持ちを決めつけることはできない」
キャスターに抱く気持ちは恋慕ではない。説明も証明もできないが、違うのだ。
「神代と古代の分かれ目から、人を見定め、人の世を拓いたこの我が、貴様ごとき雑種を見誤ると?」
「王様の偉業と私の心は関係がありません。私の心は私だけのものです」
膝はすでに震えはじめている。全身を襲う脱力感に、だんだんと気分が悪くなる。
「そのようにふらふらと覚束ない心を携えながら、よくもまあ吠えるではないか。口先だけは一人前か」
「……心が覚束ないから言葉にするんです。確かに、サーヴァントとマスターの関係は私が思う以上に深いものなのでしょう。それでも、私の心を侵害することは許しません。私と共にいたいのなら、私の言葉を聞いて、私のことを傷つけないで。それが最低条件です」
よく見れば王様の顔色だって相当に悪い。平気そうにしているが、ここ数日間離れていたのだから当然だ。
「条件を守れるのなら、私も王様を護ります。それが契約をした者の責任だと思うから」
彼の魔力が空になりつつあることは、パスをつないでいる私が誰よりも知っている。互いに体の誤魔化しはきかない。
何が楽しいのか、王様はまた声を上げて笑いはじめたが、心までは通じ合えないのだから理解しようとしても無駄である。
「貴様と共にいたいだと? 見窄らしいなりをして、神をも恐れぬ発言よな! だがよくわかっているではないか。今の我は貴様がいなければ立ち行かぬ。これほどまで弱体化した我を目にするなど、向こう数世紀はあり得ぬことだぞ。どうだ、とどめを刺してみるか? 寝首でも掻いておくか?」
自嘲をする男ではない。つまりは本気で尋ねているのだ。私は小さく首を振って、以前王様がそうしたように、彼の首元に手を当てた。
「しません」
血の流れる音がしている。じんわりとした温かさもある。ありふれた生き物の感触だ。
「そんなことしません」
敵が多かったらしいこの男は、今どうやら私の味方になり得るのだ。ならば私もそう在ろう。命の手綱を握り合って、行けるところまで行くしかない。
「……そうか。なら帰るぞ」
王様は静かな声でそれだけ言い、私に背を向けた。返事をして後ろを歩く。
離れるといったって、結局、歩いて帰れるほどの距離しかとれていないのだ。甘すぎて笑えてしまう。彼用の通信端末を買わなければならない。私は滲みだす疲労感の中で、とりいそぎそんなことを思った。