角度によって色を変える不思議な瞳だ。私はそれを覗き込むのが好きだった。万華鏡のように世界を映し、見慣れたはずのものにまばゆい色彩を与える。
「君のお父上は、君をこちら側へ呼びたくはないようだ」
こちら側とはどこのことだろうか。
「しかし呼ばれずとも来てしまうことはある。自ら足を踏み出す人間を、止めることはできないからね」
優しい声をぼんやりと聞いていた。幼かった私も、そして記憶を辿る今の私も。
「そんなとき、いくらか役に立つだろう。君の息災を願っているよ」
キャスターはそう言って──騎士のように私の手の甲にキスをした。
「何をした」
目を開けた私の横顔に、王様は静かに問う。
「わからない」
「貴様は、何もわからぬな」
「……王さまのことがわからない」
信頼なんていうものはまだ芽生えるに至っていない。けれど慣れや親しみはあった。身近な存在に抱く思いやりや、私の人生に飛び込んできた新たな可能性に対するときめきは、多分にあったのだ。
「わかろうなど思うなと、言ったはずだ」
古代の王が一介の小間使いに認めている人権など、そうないに違いない。予想できる瞬間は常にあった。でもこのような方向から侵害されることはないだろうと、油断をしていた。私に恋人がいても気にしないと言ったのは彼だ。
そう考えたところで、今一番にすべきことを思い出す。シーツについた手のひらが鈍く痛み、目をやれば、紋章はわずかに掠れ形を変えていた。
「一画多いな」
「え?」
「そういえば、男が来た」
「……男」
「血相を変えてな。貴様はもう半日近く眠っている」
とっさに壁に目をやると、デジタル時計は朝の五時を示していた。ようやく言葉の意味を理解して、血の気が引く。
「何を……!」
「何もせぬ。あのように無力な犬に鞭を打つほど悪趣味でないわ。貴様は寝ていると、ただ事実を告げたまでだ」
「……」
「しきりに貴様の体調を慮っていたぞ。かいがいしい男よな。だが阿呆ではない。我を見て何かを悟ったのであろうよ」
考えうるに最悪の結末だ。けれど私に嘆く権利はない。男と暮らしていたことも、毎晩彼の横で寝ていたことも事実だ。そのうえ優しいあの人は、やむにやまれぬ事情を想像し、私の体調を気遣ったのだ。
「……王様、おねがいです。少しひとりにして」
「我は動けぬ。離れたければ貴様が出て行け」
「わかりました」
そういえば、彼は令呪の光に打たれていた。あれにどのような威力があるのかは知らない。今は何も考えたくない。私は適当な服を着てコートを羽織ると、朝の気配を見せはじめた薄明るい町へ出た。
コンビニの色が目に眩しい。涙が出そうになるたびに瞼を閉じてやり過ごす。花の香りを探している自分を叱責し、ひたすら無心になろうと努めた。
「貴様はキャスターに惚れていようが」私を蹂躙しようとした男は、さらに別の男の名を発しながら私の脚を持ち上げた。誰に対する不貞かもわからないまま、心だけがきりきりと擦り減っていく。
空が明るみ、日が差すと同時に電話をした恋人はいつもと同じように私の体を心配し、そのあと聞いたこともない声で「今は話したくない」と言った。
「ごめん」
一言告げて電話を切る。幼少期の思い出にも、古い町の記憶にも、今は逃げてはいけない。この世界だけを見て、自分の心をはかるのだ。足元のコンクリートは薄汚れて色味をなくしている。
*
『お父さん、聞きたいことがあります。』
そもそもの原因を考えた。人を傷つけ、自分も傷ついた原因だ。
傷つくことを予想して、それでもあの晩、彼の手をとったのは私に勇気がなかったからだ。出すべき勇気をずっと出せずにいた結果、瞬間的な渇望として溢れ出てしまった。恐怖はあったし、今もある。けれど胸を焦がすような高揚感だって、あれからずっと続いている。後戻りはできないのだ。それなら後悔をするわけにはいかない。
不本意な言い訳をしないためにも、私は今度こそ正しいと思う勇気を出した。未だ返信はないままだが、それでも一歩進んだのだと思う。
「昨夜はどこへいた」
あれから数日間、私は自宅へ帰らずに、友達の家やネットカフェで夜を過ごしていた。久しぶりに戻った私に王様は短く問い、赤い目を細める。
「……ネットカフェに」
「帰らずとも構わんが、その場所へはもう行くな」
さすがに自分のしたことに思うところがあるのか、それとも令呪の光を警戒してか、王様の態度は思った以上に淡々としていた。一言そう告げると、私の本棚から学術書を引き抜いて素知らぬ顔で捲りはじめる。
彼が何事もなかったように振る舞うのなら、ひとまずのところ身の危険はないのかもしれないが、まだこの家で眠る気にはなれない。もうしばらく外泊をしようと荷物をまとめていると、流し台の中に食器が積まれていることに気付いた。驚いてキッチンを見れば、鍋には見覚えのないシチューのようなものが入っている。
「……王様、料理できたんですか」
「当然だ。我に出来ぬことなどそうない」
ほとんど無意識の好奇心で皿へよそっていた。何も言わない王様の視線を背中に受けながら、一口食べる。ありあわせの食材で作られたらしいそれは思いの外おいしく、どこから調達したのか私の知らないスパイスの香りがした。知らないはずなのにやはり懐かしい。いろいろな感情が混じり合い、飲み込んだとたんに涙が出た。
キッチンへ向けてとめどなく涙を流す私に、王様はやはり無言の視線を向けている。悔しくて悲しくて、大声を上げてしまいたかった。
「王様の馬鹿」
「……」
「王様のことが怖いです。一緒にはいられません」
「なら戻らずとも良いと言っていようが。どこなりとも彷徨いていろ」
魔力の供給は大丈夫なのだろうか。気になったが口にはせず、私は荷物の補充をして家を出た。
昨夜から借りているネットカフェのブースに戻り、携帯電話を覗くけれど、未読メールは一通もなくため息をつく。いつもは二、三日のあいだに返信が来るのにもう四日目だ。
激変と停滞が私の心をくたくたに疲労させる。狭い個室のマットの上で、私は丸くなって目を閉じた。インスタントフードの匂いが漂っている。発達しすぎた利便性は国を醜悪にするようだ。その恩恵にあやかりながらも、ただ無責任な悲しみを覚えていた。