王様の指が私の頬に触れている。あやすような手つきだ。普段の彼からは想像もつかない穏やかさを感じ、私は夢を見ているのだと思った。古代の町ばかりを旅していたが、たまにはこんな夢もあるだろう。
香のただよう夜の中で、男の形をした指が頬から顎、首、そして胸へと降りてくる。これ以上は良くないと思い、制そうとしたけれど、結局指はそこで止まり、なにごともなく離れていった。
ただ近くに、ずっと王様の吐息を感じていた。いつかのように私のうなじに鼻先を埋め、彼はじっと私の鼓動を聞いている。
これは夢だ。夢でなきゃ困る。
繰り返し言い聞かせ、記憶ごと、心の底へ沈めていく。明日にはきっとすべて消える。
*
悪夢はあれから見ていない。こころなしか白昼夢にとらわれる回数も減っている。
遠い過去の王国は過去にとどまったまま、じっとこちらを窺っているようだった。
「あ、失礼」
早めにとった夕食の後、今日はもう寝てしまおうかとリビングで休んでいると、携帯電話が長く震えた。恋人からの着信を示すそれに無闇にどきりとした私は、一言そう告げて部屋を出る。
マンションの廊下で聞く恋人の声は相変わらず優しく、王様の焚く香油とはまた違う甘さで、私の心をときほぐした。少しだけ雑談をしたあと、夜の挨拶をして通話を切る。彼の仕事が立て込んで近頃は会える日が減っていたけれど、週末は久しぶりにゆっくりできると言っていた。
私の好きなジャズバンドのチケットを取ってくれたらしく、私は買ったまま着る機会をなくしていた白いワンピースのことを思った。シフォン生地のフォーマルなもので、それなりに値も張り、いつか特別なデートで着ようと心待ちにしていたものだ。
ここ最近、私の心を占めているものや、私の過去の思い出を、彼に告げずにいるのは酷いことだと思う。
いっそすべてを打ち明けてしまおうかと思ったこともある。けれど結局、そのような選択肢はないに等しい。私すら全容のわからない不穏な世界を中途半場に覗かせ、巻き込み、見え透いた破局へと追いやるなんて正気の沙汰ではない。けじめをつけるのなら最後まで嘘を突き通し、ありふれた酷い別れとするしかないのだ。
彼と会い、きちんと見定めなければならない。大切ならば別れるべきだろう。そう思っても、私の心は自然と浮き立っていた。久しぶりに会えること、そして彼が私のためにちょっとした特別を用意してくれたことが、嬉しくて仕方なかった。
「雌のような顔だ」
部屋へ戻るや否や、私の顔を見て王様はそんなことを言う。さすがにむっとし、私は無言のままテーブルを拭いてやり過ごす。
その腕を、彼が掴んだ。痛みはないが驚いたことと、赤くなりやすい私の肌に痣が残っては困るという思いにかられ、とっさに振り払う。
「反抗的だな。不貞を気にせずとも、ここに貴様の男はおらんぞ」
「そういう問題じゃ……」
いつになくつっかかってくる王様に、何かしてしまっただろうかと思い返した。けれどこれといった過失は見当たらず、単に退屈の虫が騒いでいるのだろうと思った。
「王様、今週は」
そこまで言ってしまってから、このタイミングで告げるべきではなかったと後悔する。けれど今さら誤魔化せるわけもなく、私はおずおずと口を開いた。
「土曜日に予定が入ったので」
「……」
「そのまま外泊すると思います」
また辛辣な嫌味の一つや二つ言われるだろうと冷や汗をかいていると、意外にも王様は「そうか」とだけ返し、風呂場へ行ってしまった。彼が私の外泊を止めたことはないけれど、最近は頻度自体が減っていたため逆に言い出しづらかった。
王様の機嫌がぶれないうちに今日はもう寝てしまおうと、私はそそくさと寝る支度をして、灯りを消した。
慌てていたためうっかり香炉に火を灯すのを忘れてしまったが、朝起きると枕元で香油の最後の一雫が燃え尽きようとしていた。きっと王様が焚いてくれたのだろう。
とき折り感じる王様のこうした優しさが、この生活を悪くないと思わせる。どうせ離れることができないのなら、相手に好意を待っていたい。歴史に名を残す大英雄相手に親愛の情を向けるなど、かえって失礼にあたるのかもしれない。けれど彼の手は案外優しいのだ。どこかで感じたそれを思い出し、私は一つ息をついた。
「今日、何食べたいですか」
「朝に聞くなど珍しいな」
「スーパーの特売日なので、帰りに寄ろうと思って」
なんとなくお礼がしたくなり尋ねれば、王様は少し考えてから「なんでもよい」と言った。
「え、そうですか?」
「告げようにも料理名がわからぬ。面倒だから好きに作れ」
「はい」
それは暗に、なんでも美味しいと言ってくれているのではないか。前向きに捉えながら頷いて、私は手のひらにハンドクリームを塗る。すべすべと染み込んで、甲の令呪がつやりと光った。
「近ごろ私、体の調子が良くて」
「は?」
「実は王様が来るまで、あまり自炊なんてしてなかったんです。自分一人のためだけだとついサボっちゃって。でも今は王様が食べてくれるから。全部食べてくれるの、ひそかにいつも嬉しいんです」
そう言って笑うと、彼は一瞬目を細め、今までにあまり見たことのない表情をした。いつもより少しだけあどけなく見え、首をかしげる。
「また調子悪いんですか」
「貴様のその能天気な頭よりはましだ。だが変わらず、今は馬の餌でも無駄にできん状態でな。貴様の生み出す質素倹約の象徴のような庶民料理も、食べぬよりはよいという話よ」
滑らかに発せられる言葉から、謙虚さといったものは欠片も感じられない。要するに機嫌が良かろうが悪かろうが、こういうことを言う人なのだ。彼にはきっと裏も表も、本音も建前もない。
その呆れるほどの率直さに、私はつい安心してしまった。分かり合えると思ってしまった。
圧倒的な力の差なんて、言葉でいくらでも埋められると油断をしたのだ。