星の餞別-1
 持たざる者とも選ばれし者ともつかぬ、中途半端な立場をとってきたものだから、ここぞというときに選択を間違えるのだ。

 隔絶された新宿の空はいつにも増してまがまがしく淀んでいる。煌々とまたたくサーチランプはそこに悪の根城があることを明快に示していたが、どうすれば打破できるかなどは想像もつかない。この街の夜は、もう長いこと濁りすぎている。
 そんな摩天楼を黒く切り抜く鳥居の影に、少女が一人。私のことだ。少女は軽はずみな使命感と日に日に増す恐怖心に突き動かされ、このときとある選択をした。間違いだったと後悔をするには壮大すぎる、身の丈を超えた選択である。
 その晩のことが世界にとって意味のあるものだったのか、それとも無意味で余計なものだったのか──私はいまだ知り得ないままだ。


「厭に空気が生臭いな」
 耳に届いた男の声は明朗快活であった。
 魔術を学んだのは素質があったからだ。けれど転機に飛び込むほどの行動力もなかったため、今日まで人並み以上の行いをしたことはない。
 力があっても使わない者は、無力な者よりよほど邪悪であると、私はこの数ヶ月のあいだに実感していた。
「見るからに殺風景な社だが……我を喚んだのがまさか、そこな見窄らしい小娘ということはあるまいな」
 もしも、まだ間に合うのなら──。ここへ来たのはその一心からだ。
 理屈は知っている。方法も、手順も学んだ。本来聖杯というものを起点にして展開されるこの魔術方式に、いくつかの例外が存在することも一人のマスターによって証明されたばかりだ。
「わ、私が」
 東京の霊脈を基盤に建つこの神社は、熊野の神を由緒とする新宿有数の魔力スポットである。荒らされてはいるものの御神体は無事であり、術式を行うのならここがよかろうと決めていた。
 英霊というものが何であるのか、知識として理解はしている。サーヴァントとマスターの間に結ばれる使役関係の仕組みも知ってはいる。けれどいざこうして人外の男を目の前にしてみれば、その言い表せぬ迫力に気圧されるばかりだ。
「私が……喚びました。あなたの霊基クラスと、真名を教えてもらえませんか」
 どうにも間の抜けた私の呼びかけに、男は眉一つ動かさずに周囲を見る。
 荒廃した神社だ。本殿の扉は破壊され、すえた空気が祭壇の前にまで流れ込んでくる。何も言わない男に場を持て余した私は、立ち上がり蝋燭に火を灯した。一つ二つと順につければ、祭壇が彩られ殿内に暖かな色がこもる。
 そうして改めて見上げ、息を飲んだ。
 召喚術の青とは違う、淡い火に照らされ佇む金色の英霊は、この世のものと思えない荘厳さを纏っている。実際にこの世のものではないのだ。けれど元はどこかしらの時代に生を受けた、何者かであるはずだ。
 容姿端麗にして底なしの威厳を放つこの男、おそらくはその時代最高位の人間なのだろう。無礼を働けば処断されることなどは言われるまでもなく肌身でわかる。
「心して答えよ。何ゆえこのような場所に我を喚んだ」
 一分の誤りも許されないであろうその問いに、私は必死で脳みそを働かせる。
「ええと、この街はおそらく今、人の歴史から隔絶されています。原因も原理も不明ですが、そうとしか思えないのです」
「隔絶だと?」
「はい。この一帯を覆う頑強な壁が、ある夜一晩にして立ち上がりました。このところ続いていた数々の異変から鑑みて、何者かが故意に新宿を人理から切り離したものと思われます」
「……」
「このままではいけないと思いました。すでに取り返しのつかないほどの物が失われています。理から外れたこの街は無法もいいところ。正すには人以上の力が必要なんです」
 赤く見透かすような瞳を見ながら、なんとか言葉を捻り出す。私に出来ることは包み隠さず状況を伝えることのみだ。それで裁かれるのなら仕方がない。彼は一度息を吸って私の言葉を咀嚼すると、その目をさらに鋭くした。
「して──誰の指示か。貴様はどこの回し者だ」
「あ……あなたを召喚したのは、私の個人的な判断です。どこの組織の指示でもありません」
「個人的な判断だと? 笑わせるな。貴様ごとき魔術師に、ろくな触媒もなく召喚術など使えるものか」
「それには、私自身驚いています。けれど触媒といえばこの社と、東京の霊脈自体が触媒なのでしょう。今の東京には以前と比べ物にならないほどの魔力が渦巻いているので」
 これに関しては自分が一番信じられないのだから、彼が疑うのも無理はない。
 一通りの教えを授かったものの、結局どこの組織にも属さなかった私は情報に疎いがゆえ、勘のようなものが鋭くなった。壁を前にしてわかったことは、すでにその向こう側に世界が存在していないということだ。けれどまさか、危機感に煽られ挑んだだけの付け焼き刃の召喚術で、こんなにも立派な英霊を喚べるとは考えてもいなかったのだ。
「謀る気なら死を覚悟せよ」
 彼はそう言うと、社の敷居をまたぎ軒へ出た。
 不穏な風が吹いて彼の髪と首飾りを揺らす。どこからでも見上げることのできる要塞じみた建物は、やはり静かに息をするように、暗闇の中でランプを瞬かせていた。
「なるほどな」
 悠然と頷く彼を見ていると、名前すら知らないこの英霊を畏れ敬う気持ちが心のどこかからすくすくと芽生えだす。私は流されやすいのだろうか。彫刻のような体と、腰より下を覆う金色の甲冑は、神社特有の厳かさに妙に親和している。
「こんなものはバグに過ぎん」
「バグ?」
「我が召喚されたことだ」
 そう言うと、彼は心底呆れたというように大げさなため息を一つ吐き、語りだす。
「世界とは時と空の織り目によって成るもの。縦と横の精緻な交わりが一つの紋様となり、今この時をこの場所に存在させているのだ」
「織り目……」
「だが精緻ゆえ、それは狂うことがある。貴様のような貧相な魔術師がこの隔絶空間に我を喚べたのも、一種の初期不良のようなものであろう。ここは隔絶されたがゆえ、新しき世界とも呼び得るのだ」
 随分と規模の大きな話だ。彼は英霊として一体いくつの世界を見てきたのだろう。今目の前にあるこの場しか、現実として認識できない私には理解の及ばぬ感覚である。
「不慮の召喚に応じたうえ小娘のくだらぬ言に耳を傾けろとは、随分と舐められたものよな。だが……」
 黄金の英霊は改めて私を振り返ると、初めてその顔に笑みのようなものを浮かべた。
「我を喚んだ幸運は褒めてやる。このような稀事はそうそうと手繰り寄せられるものではない」
「じゃ、じゃあ協力してもらえるんですか?」
「先走るな。そして思い上がるな。王である我が魔術師ごときの指図を受ける理由がどこにある」
「つまり契約は」
「保留だな。座に戻ることはせんが、結ぶにはまだ早い」
 処断されても困るけれど、還られては元も子もない。どうやら最悪の事態は免れたようだが、かといって彼の望みが推し量れず、私は返答に窮した。
「視るからにふざけた状況だが、この世界には多少の興味がある。貴様はせいぜい我の魔力源として無礼のないよう傅いておれ」
 私の識るマスターとサーヴァントの関係からは大分かけ離れている気がしたが、何処かの王であるらしいこの男にそう言われれば頷く他ない。何しろ有無を言わさぬ威圧感が尋常でないのだ。
 王様はそう告げて本殿を降りると、「その酷い殿内をどうにかせよ」と言い残し夜の街へと消えてしまった。
 喚び寄せたのは自分だが、怒涛の展開に相当な消耗をしていたらしく、へたりと足の力が抜ける。
 街を徘徊する暴漢や、怖気のはしる機械人形とは違う畏ろしさが彼にはあった。けれど腑抜けている場合ではない。なにしろ彼が帰るまでに、この荒れた社を整えなければならないのだ。
2017.10.26



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