星の餞別-13
 たくさんの音、たくさんの色、たくさんの声に、すこしの──。

 誰かの声がして、耳をすませる。
 暗いような明るいような不思議な感覚だ。長い夢の終着点といった心地いい倦怠感の中、私はうっすらと目を開ける。
「やあ」
 視線が合ったとたん、短くそう発したのは長い髪を肩口でゆらす綺麗な女性だった。目を閉じていたのにどことなく眩しく感じたのは、見回した部屋が一面真っ白な壁をしていたためらしかった。
「……あ」
「気分はどうだい。一応、数値は全て正常なんだがね」
 彼女は碧眼を優しげに細め、私の顔を覗き込む。穏やかに笑ってはいるが、興味をそそられて仕方がないという熱量がそこにあり、思わず早急に背を起こした。多少頭がふらつくけれど、どこかが痛むということはない。しかし体を見ると、手や腕には無数の傷跡が残っていた。
「新宿は……」
「そうだ」
「え?」
「君は新宿にいた。悪性隔絶魔境としての新宿にね」
 口からこぼれ落ちた言葉を拾われ、だんだんと記憶が蘇る。すべてが夢だったように思えるが、彼女が頷くということは夢ではないのだろう。しかしなぜ、この見知らぬ女性がそれを知っているのか。あの場所を隔絶空間として客観的に認識していたのは、魔術師の私を除けば、あとはカルデアの者たちだけである。
「つまり、カルデアの……」
「ご名答。ここはあの有名なアニムスフィアの独立研究所である、人理継続保障機関フィニス・カルデアだ。そして私はさらに有名な、天才にして美女にしてカルデア技術局の特別名誉顧問でもあるレオナルド・ダ・ヴィンチ。敬愛と親しみをこめてダ・ヴィンチちゃんと呼んでくれたまえ」
 開示された情報量の多さに、再び頭がふらつく。
「どうして私が」
「どうして君が。それは私も疑問とするところだ。そもそも君が誰で、あの場所で何をしていたのかすら私たちは知らないんだからね」
 腕から点滴が抜かれ、看護師と思われる男性が彼女に数枚の書類を渡す。
「聖杯の回収が終わった後、特異点内のマスターをレイシフトシステムで転送するのはいつものことだ。今回ももちろん無事帰還できた。ただ──」
 彼女は書類に目を走らせながらそこまで言い、視線を上げる。
「こちらが捕捉していなかった魔術師が一人、還送システムに引っかかって紛れ込んでしまったようだ」
 つまり、君のことだよ。そう指をさされ、私もつられて頷いた。
「じゃあ、私は本来あのまま元の世界へと集約されるはずが、カルデアのシステムに引っかかり間違った世界に転送されてしまったと」
「世界というか、時間軸がね……。君も魔術師ならわかるだろうが、特異点はあの晩カルデアのマスターによって無事修復された。つまり君のよく知る新宿も、山を降りれば地続きに存在しているんだよ」
「はあ」
「だがいかんせん、ここは2017年だからね。君は君の知り合いより、18年分若いままだ」
 若い分にはいいなんて、そんな簡単な話ではないのだろう。けれどあのめちゃくちゃな魔境を体験した身としては、ここが私に馴染みのある平穏な世界の延長であるならばもうなんでも構わない気がした。
「ああそれから、これも一緒に紛れ込んでいた。君のかな?」
「宝剣……」
 受け取って、光に翳す。刀身に残る無数の傷が、あの街での戦いの日々を確かなものとしていた。ぼろぼろになった私の腕とお揃いだ。どれだけ助けられたか知れないのに、結局持ち主へ返すことができなかった。心残りとともに湧き上がる、苦しいほどの憧憬に思わず目を伏せる。
 あの嘘のような密度の数週間は、私にとってどのようなものだったのか。生まれ変わり、別の存在になれたように錯覚した。しかしこうして他所で目覚めてみれば、いつもと変わらない平凡な自分がいるのみだ。
 それだというのに手のひらだけは、この柄の握り心地をしっかりと覚えている。崩れゆく世界の中で最後に見た彼の目も、名も、声も、すぐそこにあるように思い出せた。記憶も感覚も、心も体も、まだ全てが彼にとらわれ掻き乱されている。この深みから、いつか誰かが掬い上げてくれる日が来るのだろうか。
 途方もなく茫漠としたその問いの答えを、私は思いのほか早くに知ることとなる。
 背後でドアの開く音がして、ダヴィンチと名乗った女性が目を丸くするのが見えた。今更気付いたが、窓の外は大吹雪だ。これはまた随分なところへ来てしまったものである。
「まったく貴様──」
 そうしてゆっくりとつかれた溜息は、何度目のものだろうか。
「無傷で返せと、言ったであろうに」
 私は一度目を閉じて息を吸った。大丈夫だ。体は魔力で満ちている。
 この声があれば私はどこへでも行けるし、どこでだって生きられるのだ。それを一から、また証明して見せればいい。
2017.11.12 END



- ナノ -