星の餞別-9
 名前以外のことばかり知ってしまう。それはとてもこそばゆく、そして少し哀しいことだ。

 目が覚めてからしばらくは、彼の躰の紋様に目をはしらせていた。裸の胸に頬を乗せ、その不思議な曲線を追う。彼とこうして身を寄せ合うことは初めてではないけれど、あのときと違うことは数えだせばきりがない。私は自分が我に返りきる前にこの状況から脱しようと、腰にまわっていた腕をそっとどけた。
 身を起こし、社務所から拝借していた寝巻き用の作務衣に手を伸ばす。しかし羽織を開く前に、がしりと再び腰を掴まれ、元いた場所へと引き戻された。
「……なにをコソコソと退こうとしておる」
「お、おうさま」
「貴様には、同衾の朝を甘く迎えるほどの器量もないのか」
 朝といえど外は暗い。けれど王様があえて朝と言った理由もわかる。二人で一晩交わって、目を覚ましたのならそれはやはり朝なのだ。
「この我が言葉どおり、全霊で愛でてやったのだ。満足していないとは言わせぬぞ」
 王様は私の体を自分の上に乗せると、飼い猫をあやすように指先を小さく動かした。くすぐったかったけれど、どう反応をすればいいのかわからず、私は薄掛けの布の下でまたぴたりと彼の胸に頬を寄せる。王様の素肌はとても温かくほんのりと甘い香りがした。異国の香りだ。馴染みはないはずなのに、なぜだか少し懐かしい気持ちになる。
「満足というか……」
 正直、最後の方はよく覚えていない。ただ彼がそうするように、私もまた衝動的に彼のことを求め、首元に縋りついていた記憶はある。
 サーヴァントとしての信頼や、強いものへの憧れが都合よく恋へと転換されただけなのかもしれない。それでも私が異性としてこの人を求め、受け入れたことに変わりはない。怒涛と言える一連の流れを思い出し、消化しきれない感情に襲われる。
「なんだ貴様、異様に熱いな」
「……」
「知恵熱か。それともまだ体が火照るか?」
「……いえ」
 ただ、照れくさいだけです。そう小さく呟けば、王様は私を抱えたまま盛大に笑い、胸板を揺らした。この人みたいに思うがまま怒ったり笑ったりできたら、人生はさぞ愉しいものだろうなと思う。
「愛いな。なかなかによいぞ、処女というのは初々しければ初々しいほどよいものだ」
 そんな勝手な男の所感を述べられたところで、こちらからすれば人生一度の大勝負なのだから、それは良かったなどと思っていられない。私は羞恥心にまかせ背を起こし、大きく息を吸った。このままいいようにからかわれ続けるのは癪だ。それに、そろそろ気を引き締めてまたこの街の陰と向き合わないことには、今なお前線で奮闘しているだろうカルデアの者たちに申し訳が立たない。
 起き上がった私の肩に、後ろからしつこく甘噛みをしてくる王様をなんとかいなし、今度こそ作務衣を着込んだ。幸いスカートは無事だ。けれどシャツは彼にびりびりに破られてしまったため他に着られるものがない。少々アンバランスだが仕方ないだろう。
「なんだ、もう出るのか」
「寝てる場合じゃありません」
「まあそうだな。中央はそろそろ佳境のようだぞ」
「佳境って……」
「近いうちにカタがつく、ということだ」
 どうしてわかるのかは不明だが、彼の言葉には確信的な響きがあった。引き戸を開け、要塞と化した都庁を見上げる。世界が救われるとき、そこに何かしらの合図はあるのだろうか。考えても仕方ないが、電源が切れるように突然終わってしまうのならそれは少し寂しいと思った。


「狼は、もう退治されたんでしょうね」
 街の空気が変わりつつあることは私にもわかる。少しずつだが、空に垂れ込めていた魔力の密度は薄れはじめていた。
「業腹だが仕方あるまい。前にも言ったが、あれを屠るは我らの役目ではなかったからな」
 やられっぱなしが気にくわないのか、彼は不満げな顔でそう言った。けれどやはり、必要以上の私情をこの街に挟むつもりはないらしい。現状彼がしていることといえば、道化と笑う私への気まぐれなサポートとアドバイスのみである。今更ながらに贅沢な英霊の遣い方だと思ったが、それならば最後までその贅沢を満喫してやろうと開き直るしかない。
「今日一日、戦ってみてわかったことは」
 宝剣を腰に差し、手の豆を見つめる。とても魔術師とは思えない指だが、これはこれで私の誇りとなりはじめていた。
「あの影、他の敵と違って結界術があまり効かないんです」
「貴様の結界術など元からたかが知れていよう」
「そ、それはそうなんですがなんていうか、そういう次元じゃなくて……」
 結界術や防衛魔術を、じわじわとすり抜ける手応えのなさのようなものが気持ち悪かった。もしあれらが他の外敵とちがう構造で成り立っているのなら、これまで安全と思っていた北西の避難区域も危うくなるかもしれない。今ではほとんどの生存者があの場所に寄り集まっているのだ。悪の根城から遠ざかるためと思った立地も、郊外の壁が脅威となった今では逆効果である。
「とりあえず、神社に戻りましょう」
 ぞっとする考えをなんとか飲み込み、帰路につく。

 社の裏を抜けて住宅街へ下りると、数日前よりさらに増えた避難民らが空き地や道端で少数ずつのグループを作り、座り込んでいるのが見えた。定期的に水や食料を調達しに出ている者が数人いるらしいが、皆すっかり消耗した様子で打ちひしがれている。
「みんなもう、限界みたいです」
 無差別な暴力からなんとか逃げ延びたものの、この街にすでに快気の兆しがないことを、彼らも理解しているようだった。私の顔を覚えている人たちは時折り顔を上げ挨拶をしてくれる。けれどその目に以前のような活力はない。私は結界が今の所ちゃんと作用していることを確かめると、またとぼとぼと社へ戻った。
「どうやら貴様のしたことは全くの無駄であったようだな」
 そこまで言うことがあるだろうか。そう思ったが、いつもの叱咤激励と思い顔を上げる。しかし彼は私と目も合わさず、憎々しげに元来た道を見返していた。
「庭を荒らされることは本意でないが──我はこの街の在りよう自体は嫌いではない」
「嫌いじゃない……?」
「欲望のまま、夜をひた走る魔都。なかなかに清々しいものではないか」
 王様の機嫌はすこぶる悪いようだった。背筋が冷えるような魔力をたぎらせながら、眉間に皺を刻んでいる。
「それに比べ、力無く諦観を決め込むあの者らの惨めなことよ。欲望とは生命活動の根源だ。捨てた者に生きる資格はない」
 まるで、欲望のまま略奪をする暴徒たちの方に正義があるような言い方に驚いて、私は眉をひそめた。
「なんだ? その目は」
「あの人たちは、理不尽に奪われ傷つけられ、生きる気力を失くしているんです。希望がなければ立ち上がれないのは当然です」
「……」
「それでもあの区域で略奪は起きていない。他に何を守れなくとも、最後まで自分たちの人間性を守ろうとしている。そんなふうに蔑まれる筋合いは、一つもありません」
「人間性を守るだと? 偽善を貫く道化らしい発想だな。身を潜め、ただ死を待つなど家畜にだってできることだ。欲望や愉悦を捨てた者はすでに人間でない。人を名乗ることすら烏滸がましい木偶の集まりよ。我が手ずから殲滅してやりたいほどのな」
 彼の口から出る暴論は、はったりなどでなくすべて本音のように聞こえる。それだけに恐ろしく、形ばかりの同意をすることすら憚られた。
 不穏な風が鳴り境内の樹々が揺れる。夜の真下で人を裁かんとするこの英霊は、おそらく人ではない。
 私は今更そんなことに気付き息を飲んだ。この男はきっと、王にして神なのだ。人間などにどう御せというのか。
2017.11.06



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