ターコイズブルー



 子供を捨てる場所なんていくらでもある。ここを選ぶというのは相当なものだろう。
 流星街の淀んだ空気を吸い込んで、西の空を見た。スモッグに覆われた大気は、その向こうに沈む夕陽を曇り硝子のようにぼんやりと映し出している。緩やかな丘陵地帯風に波打った地面からはいくつもの煙が立ち昇り、空と地上の境界を曖昧にしていた。酷い有様だ。
 しかしここの空気が特別淀んでいると私が知ったのも、そう昔の話ではない。私は思春期を過ぎるまで本物の空さえ見たことがなかったのだ。この街に住む者にとって、空気は当たり前に重く、空は当たり前に低い。

「外の世界は美しい?」
「お前も知りたいなら外に出ればいい」

 久しぶりに故郷へ帰ってきたクロロに尋ねれば、簡単にそう返されてしまった。特殊な場所で育った人間がその地を離れるというのは決して容易なことではない。それに私までフラフラしていたら、たまに帰ってくるクロロとこうして会うことも出来ないじゃないか。と、思ったがそれは口にしなかった。
広い世界に出てしまったら、私と彼は住む世界が違うのだろう。だからせめて、私はこの狭く汚い場所を愛する人と共有するのだ。

「まあ、名前は弱いからな」
「私は弱くないよ。クロロ達が強すぎるんだよ」
「そうか?」

 私だって、伊達にこの掃き溜めで生き抜いている訳じゃない。自衛やそれ以上のことも出来る。でも彼ら「クモ」はレベルが違っていた。クロロがそれを作りこの街を後にした時、私は寂しさと同時に憐憫のようなものを抱いてしまった。彼らは他人の領域を侵す力を持っている。そうせずにいられない力を。私にはあまり羨ましいと思えなかった。

「お前はこんな場所で育ったというのに、ハングリー精神が足りないな」

 人を大勢殺しているくせに、クロロは昔のままの笑顔で言う。悪戯がばれても反省しない、悪ガキの目だ。私はずっとクロロの顔を見て育ってきたから、これが極悪人の顔だとわからないだけなのかもしれない。育った街の淀んだ空気に気付かないように。

「ここが淀んでると気付いても、私は嫌いになんてなれないんだ。どうしても」
「こんな故郷を愛せるなんて奇矯だが、そういうところがお前の長所だ。ずっと好きでいればいい」
「好きでいるよ」

 だから時々顔を見せてね。私みたいに奇矯な人が世界には他にもいるかもしれないけれど、あなたのその悪癖まで許し切れるのはたぶん一緒に育った者だけだから。

「次はどこへ行くの」
「どこだろうな。欲しい物はたくさんある。価値のある物は少ない」

 クロロはその辺に散らばる瓦礫の中から綺麗な硝子片を拾い上げくるくると放り投げた。
 彼の手に収まるものはなんでもいいものに見える。この街のどこにそんな綺麗なものが残っていたんだろう。私も足元を探してみたけれど、見慣れたゴミが散らばるばかりで何も面白くなかった。ハングリー精神ってなんだろうと考えてしまう。才能の一種かな。
 クロロの言うことは、矛盾しているようできっと正しいのだろう。

「じゃあ忙しいね」
「忙しいよ」

 夕陽は私の知らない世界の向こう側に沈んでしまったようだ。スモッグは色味をなくし、地平には化学物質の燃える黄色や青の炎がまたたいている。あれは星の代わりだ。
 私は隣に座っているクロロにずりずりと身を寄せて、昔より厚い肩の匂いを嗅ぐようにくっついた。嗅いだことのない高級な繊維の匂いと、懐かしいクロロの匂いが混ざりあって、見たこともない懐かしい景色をさ迷う、夢の中のような気持ちになる。クロロは私を空気みたいに当たり前に受け入れてくれるが、それが少し物足りなかった。黄色い炎が火花を散らして消える。

「そうだ。これやるよ」

 思い出したように言って、クロロは私の頭を手でずいと押しやり、首に細いチェーンを回した。うなじの髪を退ける手が温かい。

「飽きたから他は全部売ったが、たまには土産くらいな。いらなければお前も売って金にしろ」

 胸元に石が光っている。名前は解らない。人差し指と親指でつまみあげれば、吸い込まれそうになって目を細めた。

「なんだ、そんなに気に入ったか?」
「うん。……うん」

 だって、これはまるでいつか見た空の色だ。


2012.4.27

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