ながれもの


彼は屋形船が好きだと言う。

窓の桟に腰掛け、川面を眺める高杉の表情は逆光のため窺い知れない。
部屋の中が暗いせいだろうか。しかし外の闇とて相当深い。真っ黒の淵の中に、柳の葉だけがうっすらと光っていた。彼と柳を照らすのは、おそらく座っている私からは見えない月の光だろう。今日は満月じゃないはずなのに、随分明るいなと思った。

「なにか、弾いてよ」

膝に抱えた三味線の糸を、彼が指でなんとなしになぞるたび、イン―と音になりきれないような音が響く。私はそれに胸が疼いてしまい、催促した。

高杉は私をちらりと見ると、懐から撥を出し糸を数回つまびく。そして思いついたように一つの旋律を奏で始めた。

品の良い音色が座敷に響く。吉原雀だ。
女の前で弾くには嫌味な選曲だとも思ったが、切ないメロディーは高杉に似合っていた。
相変わらず目を伏せたままの高杉は、何を見ているんだろう。

固く柔らかい三味線の音、川の流れる音、柳の葉が揺れる音。そして確かに聴こえる気がする、月の光が落ちる音と、高杉の心臓の音。
全てをその内側で反響させる屋形船は、なにか一つの生き物の腹の中のようだった。

彼は屋形船が好きだと、言っていた。

「高杉、月は綺麗?」

私がそう尋ねると、彼は俯いたまま「ああ」と言った。適当に答えないでと叱ろうとして、気付く。
彼はさっきからずっと、川に映る月を見ていたのだ。彼を照らしていたのは水面に反射して薄く広がった月明かりだった。どうりで明るい。

「どうせなら、本物の月を見ればいいのに」
「なァ、川の水は流れてるのに、映る月は流れていかねぇ」
「…当たり前でしょう」
「そぉだな」
「……」

この人は、また余計なことを考えているに違いない。詩人の思考ってのは面倒臭くていけない。たかだか月じゃないか、何をそんなに傷付いた顔する必要がある。

「…ゆらゆら揺れて、今にも流れちまいそうなのになァ」
「本当は、流れてしまいたいのかもね」
「……」

そう言えば、高杉は黙ってしまった。
川の流れが時の流れだとしたら、そこに映るのは彼の心だろうか。

「高杉、水面の月をいくら掻き混ぜても、消すことなんてできないよ」
「知ってらァ。だから…俺は、」
「本当に消し去りたいなら、月を壊すしかない」
「…お前ェは大それたことを言うな」

高杉は私の言葉に少しの間きょとんとして、その後嬉しそうに笑った。例えのつもりで言ったのだけどな。見る限り彼は本気で感心しているようだから嫌な汗が出た。

「高杉、私は出来ないホラを吹くタイプだよ」
「くく、別に本気にしちゃいねぇよ。今いる星さえ壊せねぇうちから、お月さんに手ェだしてどうする」
「そういう意味でもないんだけどな…」

私がはぁ、とため息をつくと、高杉は三味線を窓枠に立てかけて立ち上がった。
今までぼんやりと光っていた赤い着物は、彼が部屋の内側に踏み込んだとたん色を無くす。

私の前に屈んだ高杉のシルエットは息を呑むほど綺麗で、見惚れているうちに唇が重なっていた。

「は、」
「高杉」
「…どーすりゃいい」
「高杉?」
「動けねぇんだ」
「…うん」

私には高杉の言うことの深い意味まではわからないけど、常に張り詰めたような目をした彼が、何かに囚われていることはわかっていた。
そのまま崩れるようにのしかかられ、ドサリと畳に倒れる。

「抱かねえから、もう少し居ろよ」

そう言った高杉の声は聞くからに苦しそうで。浅い息を繰り返す彼の肩を、思わず強く抱きしめた。つられて縋るように私を抱えこんだ彼の手は、震えを隠すように強く握られている。

ねえ、何があなたをそんなに締め付けてるの。何をなくしたの。何をすれば埋められるの。
もう遅いの?

ぶつけたい疑問の全てを飲み込んで、代わりに頭を撫でてやった。

泣けばいいのに。
そんなに切羽詰まったまま堪えてないで。
捨ててしまえばいいのに。
そんなに苦しい執着なら。

馬鹿だなぁ。

押し倒された畳は、水面の上で不安定に揺れている。ふと窓を見上げれば、月は下弦の半月だった。



映る月、移る月



彼は形を変えられないまま、いつまでもたゆたっている。


2010.5.1

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