水面下



 あちら側と関わるならば、それなりの覚悟が必要だとは解っていたけれど。
 彼を取り囲むどんな組織や環境より、隣の知人が一番危険だというのは盲点だった。いや、勘はちゃんと働いていたのだ。初めて会った瞬間の悪寒を今再び思い出す。しかし油断した。

「……猫被ってましたね?」
「猫というかね。嘘で覆うのは得意なんだ」

 いつもの掴み所のない飄々とした紳士面はなりを潜め、生肉を前にした獣のような目で私の体を視姦している。

「ボクにだって一握りほどの理性や良心はあるんだよ。今のはキミが悪い」

 いつも気まぐれにやってくる彼の前で、手を滑らせた。それは確かに私の過失だ。しかしなんてことない果物ナイフにより傷付いたのは私の指であって、流れたのは私の血であって、それの何が悪いというのか。深さのわりにたくさんつたった血を、拭おうとした時には遅かった。私を組み敷くヒソカの雰囲気は尋常じゃない。抵抗しようにも何か見えない圧力にじわじわと押し潰されているようで、汗が出て力が抜けて、震えが止まらなかった。
 自分の荒い息が、半開きの唇からはあはあと不規則に漏れる音が聞こえる。しなやかで男性的な腕が砦のように私を囲う。血を舐め終えた彼の舌が首筋をゆっくり上がってくるのを感じ、私は必死に言葉を探した。

「ほんき……?」
「ボクはいつだって本気さ」

 嘘だと思った。隠す気のない嘘。力で敵わないのは明白だ。説得できるとも思えない。

「……どうしたら」

 そんな時できること、するべきことと言えば泣くでも喚くでもなく、相手に何かしらの条件を求めることくらいで。

「どうしたらやめてくれますか」

 問いかけに彼は少し動きを止めてくく、と笑った。

「キミは現実主義者だね。うん、殺らせてくれたら、わざわざ犯る必要はないかな」
「……それ以外は、ないんですね?」
「ないよ。やめる気も、選択肢を増やす気もない。どっちがいい?」
「……私はまだ死にたくない」
「聞き分けがいいね」

 彼の力はとても強く体を掴まれる度にあちこち軋んだけれど、それでも最大限の注意を払って私に触れていることは解った。圧倒的な腕力の差は気力に直接働きかける。私の体はもはや私の管理外にある。

「あ……ァ……ッ!」

 反るようにさらした首に、彼の手が伸びるのがわかった。


水面下

2012.3.12

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