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 静かに呟いた四木は、ゆっくりともう一度煙草に口を付け、ぎしりと椅子の背を押した。赤林より低いとはいえ、小柄と言えない四木とこうして向き合うとやはり身に迫るものがある。

「四木さん?」

 後ずさることも出来ずに佇んでいると、煙草を灰皿に捨てた彼は、私の髪を寄せていない方の首筋に向かい再び指を伸ばした。耳の下、うなじの脇をなぞられ、赤林の時には感じなかった何かが背筋を走る。ぞくりと肩が揺れた。

「いつ付けられた?」
「……っ……え?」
「あの晩か」

 冷静に要素をかい摘まんでいれば、彼が何を言いたいかくらい気付けたはずだ。しかし極度に緊張していた今の私には彼の意図が汲めなかった。どくどくと心臓が身体中に血液を送り出してるはずなのに、指の先さえ動いてくれない。
 机越し、という事実にどこか安心していたのだと思う。そのまま無言でいると、四木は痺れを切らせたように私の肩を掴み、思い切り引いた。

「!?」

 デスクに乗り上げる勢いで前に倒れた私は、咄嗟に意義を唱えようとしたがその前に口を塞がれた。開いていた唇から舌が入り込み、身を捩れば詰まれていた書類がバサバサと床へ落ちる。

「……っ……は、ぁ」

 私が抵抗も抗議もできないくらいに脱力したのを見計らって、彼はさらに腰を引き寄せた。細身に見える四木のどこにこんな力があるのかと疑問に思う。乗り上げた膝にカサカサと紙の感触がして、大事な書類じゃないといいと、頭の隅で思った。耳に直接吐息を感じ、今さっき指で触れられた部分に舌が当たっているのがわかった。ぴりっとした刺激を覚悟したが、次の瞬間に走った、想像よりはるかに鋭い痛みに思わず上擦った悲鳴を上げる。

「……あぁッ、な」

 にを、と聞こうとして気付く。首筋からつたってるのは、汗でも唾液でもなかった。それはポタポタと垂れ、そこらに赤い斑点を作る。あまりの痛みに理性が一気に戻り、私は四木の胸を押した。開いた距離と空いた右手に、思わず体が動く。

「……」
「……あ」

 張られた頬を撫でながら、彼は私を真っ直ぐに見ていた。息が少し荒くなっている。ベッドの中でも見たことのないようなギラついた目だ。私はずり落ちるように床へ足を付き、いつの間にか外されていた胸のボタンをギュッと掴むと、踵を返し扉へと向かった。追い掛けて来るかもしれないと思ったが、その様子はなかった。荒い息を整えることもせずつかつかと廊下を歩く。早足ではあるが、走ってはいない。そこまで力が入らないのだ。使い物にならない頭が唯一訴えているのは「とりあえず人のいない所に行け」ということだった。非常口の緑をくぐり、オフィスビルの裏階段へと出る。
 息をととのえようと深く吸った所で、バンとドアの開く音がして私は口から遥か下の歩道へと心臓を落っことしそうになった。

 振り返った先にいたのは白、じゃなく、派手な柄の入っシャツだ。前者よりはありがたいが、今会いたい人物ではない。というより、誰にも会いたくないからここに来たというのに。

「……赤林さん」

 名前を呟くと、彼は私の様を上から下まで確認し――あろうことか声を出して笑った。

「アッハハハ!!……はあ、いやー思ったより効き過ぎちまったみたいだねぇ」

 涙を湛えて大笑いする男を、怒る気にもなれない。落ち着いて自分の体を見下ろすと、ボロボロに乱れている上、白いブラウスには真っ赤な血が滴っている。男というより、獣に襲われた後のようだ。

「どうしたらこうなるかねえ」
「あなたが言いますか」
「俺は、もっと甘ーい展開になるようにだなぁ」
「私と四木さんは甘い展開になんてなりませんよ」
「なんで?」

 なんで? なんてそんなに無邪気に問われても困る。

「四木さんは、私に惚れてる訳じゃないと思うから。……ていうか、ひっ叩いちゃったし」

 私の答えに、赤林は俯いて肩を揺らした。

「あんたら、やっぱそっくりだ」
「……は?」
「いやいや、嬢ちゃんと旦那。本当に似た者同士だよ」
「私は四木さんには似てませんよ」
「似てるね。ガキが大人ぶって、簡単なことをわざわざむずっかしくしやがる」
「……」
「ガキはガキ臭くしてりゃいいんだ。俺みたいにな」

 赤林は背筋を屈め、私の首につたう血の跡をぺろりと舐めた。とっさに飛び退くと、無邪気な顔で笑われ二の句を告げなくなる。いろんな笑顔を持つ人だ。舐められた所がビル風に煽られ、ひんやりする。赤く錆びた手摺りを握り ハアと一息、気をゆるめた。瞬間、またもや後ろからドアの開く音がして、私は今度こそ手摺りの向こうに大事なものを落っことした気になった。
 振り返ると白いスーツ、ではやはりなく。ジャケットを脱いだ黒シャツ姿の四木が立っていた。組の幹部が血の付いたスーツでうろつく訳にはいかないのだろう。赤林は両手を上げながら少し身を退いた。

「何もしちゃいません。今も、あの夜も」
「……」
「この子はそこまで尻軽じゃないし、俺はそこまで性悪じゃない」

 手摺りに肘をあずけた赤林の片目が、双眼を見据える。

「そんなこと、わかってますでしょう? 四木さん」
「……どうだかな。酔った勢いで女に跡付けるような奴に何言われても」
「だからそりゃ、起爆剤ですよ」

 薄い色のサングラスが反射して、赤林の目はよく見えなかった。四木とすれ違うようにドアに手をかけ、彼はやれやれとため息をつく。

「まったく。いい歳こいたおっちゃんに愛のキューピッドなんてさせないでくださいよ」

 おどけたような台詞を残し去って行った赤林は、いつも通り映画から抜け出たような虚構じみた雰囲気ではあったが。自ら当て馬役を買って出た彼が実際のところどこまで本気だったかなど本人にしかわからない。

「……ったく」

 しばらくのあいだ無言を貫いたのち、残された男は盛大にため息をついた。

「四木さん、最近ずっと怒ってますね」

 思い切ってそう言えば、じっと恨みがましい目を向けられる。私は秘めたる意味を込めて聞いてみた。

「私、四木さんに怒られるようなことしたんでしょうか」

 彼は軽く目をつむり、煙草を取り出そうと手を上げたが、ジャケットを置いてきたことを思い出したのか代わりに頭をくしゃりとかいた。

「不満か?」
「……いえ」

 首を振りながら、清々しいようなため息をつく。ビル群のわずかな隙間から差しこんだ夕方の陽が、薄暗いはずの非常階段を今この時だけと照らし出していた。

「その口からちゃんとした言葉を聞くまでは、とりあえず死ねませんね」
「いまわの際に言ってやる。それまで隣で待ってろ」
「楽しみにしてます」

 不満だなんて、そんなことは言っていられない。ゲームはまだ始まったばかりなのだ。


2011.9.30

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