例によって、四木は何も聞いてこなかった。
あの余計な情報ばかり持ってくる腐れ情報屋が去った後、無言の圧力に堪えかね逃げるように部屋を飛び出したのは昨日のことだ。しかし次の本番も近いので、私は毎日ここに通わなきゃならない。こんな業界にいるせいか腹芸ばかり達者になってしまった中間管理職の彼は、結局空気を重くするだけで何も切り出してこない。何か不満があるなら言うか、言わないなら隠すか、どちらかにしてほしい。それとも隠しているつもりなのだろうか。だとしたら、この人は自分の内側から滲み出る威圧感というものをもう少し自覚した方がいい。
私は大量の溜め息を肺に着々と圧縮しながら、デスク上の書類と睨み合っていた。
「お邪魔しますよー、と」
そしてこちらも例によって、ノックを知らない男である。呑気な声色で赤林が入ってきたのをきっかけに、私は溜めに溜めていた空気をここぞとばかりに吐き出した。赤林は心外そうに、しかしどこか愉しげに口を歪める。
「まぁまぁ、そんな嫌な顔しなさんな」
「嫌な顔? してませんよ。疲れてるだけです」
「旦那に言ったんだよ」
「……」
からからと笑われ、押し黙った。ちらりと四木の顔色を伺うと、確かにすごく嫌そうな顔をしている。私に対してもそれくらい解りやすければいい。いや、嫌がられるのは御免だけれど。
「何か」
「いやぁ」
端的に問う四木と、のらりくらりとかわす赤林。ハラハラする私。溜め息を吐ききった後の肺が今度はちりちりと痛むようだ。
「また茜のお嬢のことで、何かうちのに相談でも?」
「根に持ってますねぇ旦那。そんなに"そちらの"を横取りされたの、不満でしたかい?」
「……赤林さん、喧嘩を売ってるのなら買いますよ。ただし元が取れるとは思わんで下さい」
「おっと失礼、俺ぁ別にふっかけに来た訳じゃありやせん。気に障ったなら謝ります」
散々ふっかけてといて何言ってんだ、と悪態をつきたいのを我慢して、私は触らぬヤクザに祟りなしと傍観を決め込んだ。
「そう睨まないで下さいよ。次のヤマぁ結構でかいから、フラフラしてないで真面目に働けって専務が言うもんで、真面目にしに来ただけです」
確かに次の本番はそれなりに規模も大きいしシチュエーションも際どい。いざという時の戦闘要員は多いに越したことはないだろう。なので普段なら四木と共に動くことの少ない、青崎か赤林、どちらかに救援を頼もうと思っていたところだ。
「あ、なら赤林さん、ちょうどよかったです。コレざっと目通して下さい」
私は自分の手元の紙をひらつかせながら声をかける。この妙な雰囲気が続くよりは、仕事の話になってくれた方がずっといい。赤林は後ろからどれどれ、と近付くと、大きく屈み込みデスクに手を付いた。彼は背が高いので、覆うように大きな影ができる。視界が悪くなったため取り引き先名簿にチェックを入れる作業を中断していると、赤林の指が私の襟足をヒョイと耳にかけた。
「……?」
「いや失礼、書類が見えなかったもんで」
「ああ、すみません」
私は髪を軽くかき上げ片側に寄せる。赤林は書類に目を通しながらうんうん、なるほどねぇ、と楽しそうに頷いている。……そんなに楽しい内容だっただろうか?
「赤林さん。何枚もあるから持ってっていいですよ」
「いや、もういいよ。大体わかった」
「もうわかったんですか?」
「わかったわかった。やっぱ消えちまわないうちが勝負、だな」
「……はい?」
いまいち要領を得ないのは今に始まったことじゃないが、彼は私が聞き返してもへらりと笑うだけだ。会話を諦めてデスクに向き直れば、赤林は口笛を吹きながらあっさりと部屋を出ていってしまった。根っから現場主義の彼が、専務に言われたからってわざわざ小難しい関係書類まで読みに来るなんて。
「何だったんでしょう……」
「知らん」
ばっさりと切り捨てた四木に、気を取り直して席を立つ。チェックし終わった名簿を持って四木の前まで行くと、彼は書類に向けて指先を伸ばし、直前で止めた。
「……ああ、そういうことか」
右指に挟んだ煙草に口を付け、四木は細く長く息を吐き出した。
2011.9.28