白糸


何も言わず戸を開けると、座敷には思いがけず二人分の影があった。

部屋の中は行灯の赤と、月明かりの青が混ざり合いゆらゆらと揺れている。冬の夜独特の空気。生温い水の中のような。

そして、私を呼び出した張本人はといえば──。

艶っぽくスソを乱した女の膝にゆったりと頭を預けながら、ああそういえば呼んだんだったな、というような顔をこちらに向けおっくうそうに煙管の煙りを吐き出した。

(きれいな、人…)

彼の頭を後ろから膝に抱え込んでいる美人は、恐らく馴染みの妓だろう。
高杉の腕が示すわずかな仕草に反応して、彼女はすっと煙草盆を手元に寄せた。
その二人の疎通があまりに慣れたもので、俄かに不快感がこみ上げる。

(不快感?)

どうして私がそんなものを。
自問しかけて思うが、誰だってこんなふしだらな男女の有り様を見せつけられたら、嫌悪感を持つに決まってる。女として当然の感情だ。

目を逸らし着物の裾をきゅっと握りしめると、高杉はフンと鼻を鳴らし嫌な笑みを浮かべた。

「…なに、用事って」
「用があるのはお前の方だろ」
「あなたが呼んだんじゃない」
「ここ数日、ずっと物言いたげな顔してたじゃねぇか」

高杉はそう言うと体を起こして女から離れた。鮮やかな着流しを軽く留めただけの帯は膝まで垂れている。だらしなく見えるが、不思議と品がなくは見えない。

「それはお気遣いありがとう。でもどうやらお邪魔してしまったみたいね」
「済んだ後だから気にするな。もう半刻早かったら追い返してたけどな」
「……」

女を同時に部屋に呼ぶ無神経さに虫酸が走ったが、これから告げることの内容を思い出してどうでもよくなった。

「高杉、私あんたと一緒にはいられない」

声は震えてないだろうか。
なるべく毅然としていなければいけない。あしらわれないよう、つけ込まれないよう、悟られないように。
せまい船の中で逃げ場も選択肢も奪われ、彼のいい様にされるようになってからどれくらい経つだろう。

私には一緒に生きたい人がいた。
かつては高杉だってその人と、日々を分かち合い、同じものを目指していた。私達は同じ土で顔を汚しながら生きていたのだ。

なのにそれぞれの道が違った時、共有していた物は、奪い合う物へと変わってしまった。
高杉は彼が手を差し延べるより早く、私をさらうように彼から遠ざけた。高杉は私が他の道へ向かうことを許してくれなかった。他の人を選ぶことを許してくれなかった。
でも。

「私、約束したの。銀時と」

“俺らなりに、この汚ぇ世界を愛してやろうじゃねーか”

いつか彼がそう言いながら叩いてくれた肩に、右手で触れる。大丈夫と自分に言い聞かせるように。

「世界を壊そうとしているあなたと、これ以上一緒にいることはできない」
「………」
「この船を降ります」

愛したいのだ。私はこの船から見渡せる町を、国を。出来ればあの人と一緒に。


「今日は帰れ」


静まった座敷に高杉の低い声が響いた。感情の読めない声だった。
自分に向けられたものかと思い顔を上げたがどうやら違ったみたいだ。告げられた女は特に不満とも思わない顔で上品に頷く。

わずかなきぬ擦れの音だけを立て部屋からするりと去った女が、無性に羨ましかった。
呼ばれればここへ来て彼に抱かれ、帰れと言われれば対価だけもらい静かに去る。そこに余計な感情はない。いさかいも戸惑いもない。

彼女は私が未だ越えられずにいる船と下界との敷居を、今頃あっさり越えていることだろう。花街の門に捕われて生きる彼女の方が、今の自分よりよっぽど自由に見えた。

「お前は自分が誰の物か、いまいち解ってないみたいだな」

激昂するかもしれないと思っていた高杉の声はゆったりと落ち着いていて、それでも押し隠した大量の感情がその底に流れているのが解ったから、背筋がぞっとした。

「誰の物…?」

しかしもう、限界だ。

「私は私の物よ。あなたがあなたの物であるように」
「そうだな、確かにお前はお前の物だ。だがお前だけの物じゃあない」
「……」
「お前の女の部分は、俺の物だ。お前を女にしたのは俺だからな」

こちらを見もしないで煙管をふかす高杉は、いつも通り平気で無茶苦茶な事を言ってのける。
冗談じゃない。そんな子供のような理屈に私が一生縛られなきゃいけない理由こそないはずだ。

「忘れたか。そんなわけねーよなァ。初めて俺に抱かれた日から、お前は確かに女の目になった。…綺麗になった」
「…うるさい!あなたの無茶に付き合うのも、今日を最後にしたいのよ!」

感情に任せ吐き捨てて、すぐに後悔した。
自分から乱れてどうする。彼を優位に立たせてはいけない。そうは思っても、もう心がついて来ない。

高杉は立ち上がり、私の前に膝を付く。頬に手を添えられ、それはするすると首筋へ滑る。
ふいに人形でも扱うように、ぞんざいに首を掴まれ、思わず顎が上がった。獣のような隻眼と視線が絡む。

私は元々、彼を好きだったのだ。それは共に生きる仲間としてだけれど、高杉は私にとって充分大事な存在だった。だからこそ、今の関係がつらくてしょうがない。

だんだんと乱れる呼吸に、わななく唇を高杉の指がゆっくりとなぞる。首では親指と人差し指がじわじわと頸動脈を圧迫していた。すべてを手の内に握られている感覚に陥る。実際、私をこのまま殺すことなど造作もないのだろうから、違いはないが。

しかしその手はあっさり離された。首から胸をつたい降りた掌が円を描くように腹を撫でる。
高杉は右目を優雅に細め、一見して穏やかな笑みを浮かべながら私の耳元に口を寄せた。

「お前が一番解ってるはずだ。お前の中に居るもんが、何より示してるだろう。お前が俺から離れるなんて、あっていい訳がねぇんだよ」

心臓が止まるかと思った。
特異な人だとは思っていたが、改めて思い知る。背筋に震えが走る。私でさえ私の体の異変に気付いたのはつい数日前だというのに。この人は、いつから。

もうとうに首を絞める指は外されているのに、私の呼吸がおちつくことはなかった。目を見開いたまま息をするのを忘れていると、思い出させるように深い口づけを落とされる。

手はまだ腹部にあてられている。
そこにある証拠を確かめるように、長い指がゆっくりと這う。

知られる前に、船を降りなければとひたすらに思っていた。その後のことなど考えていなかった。でも全て無駄だったようだ。私はやっぱり、この人から……。

足りない酸素に脳は思考を緩め、体は力をなくして畳へ崩れ落ちた。見上げた男の身体はあいまいに揺れる冬の夜のなか唯一圧倒的で、絶対だ。元から緩く羽織っていた着流しは大きく乱れ、素肌の大半が月明かりに照らされている。
肉も骨もその隙間にできる影さえも、思わず息をのむほどに美しい。だからといって私はこの男に抱かれたいとは思わない。

「お前は、俺の物だ」

妖しく笑う瞳の奥に、子供みたいな無邪気で残酷な光が見える。
何故だか泣きそうになった。


白糸
はくしに、もどすことは


もうどうやってもできない。
ならばこの白い糸を血で染めて、運命とするしか。


2010.?.?

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