こういうこと



 キッチンから戻ると臨也がデスクで煙草を咥えていたので、驚いて声をかけた。

「臨也って煙草吸うの?」
「吸わないよ、まっず。こんなもんで自分の致死率上げるなんて馬鹿げてる」

 彼はそう言ってまだ長い煙草を手元のグラスに落とした。綺麗に磨かれた側面がぼうと曇る。底には少しだけ水が残っていた。薬でも飲んだのだろうか。

「長生きしたいとか言うわりに、寿命縮めるようなことばっかしてるのは臨也じゃない」

 そういなせば、彼は首をすくめ回転椅子を後ろに向けてしまった。頭の後ろで両手を組み窓の外を見ている。こうなると完全に外部からの情報を遮断して、気持ちの悪い自分の世界に入ってしまうので何を言っても無駄だ。
 何を考えているか知らないけれど、街を眺めながらたまにくすくす笑ったり、椅子を落ち着きなく左右に回したり、突然立ち上がってウロウロしてまた座ったりする。私の存在を無視してこれなのだから、一人の時もこうなのだと思うと少し泣ける。本人が楽しそうで満足気なところが、また一層感傷を煽った。

 しかし今日はいつにも増して落ち着きがない。煙草のこともそうだけれど、なにか心境に変化でもあったのだろうか。まあ、どうせまたろくでもないことを画策しているに違いないが。
 保身ばかり考える割に、肝心なところでむこうみずな臨也のやっかいな性格が、いつか命取りになるんじゃないかと私は心配している。合理的なようで矛盾だらけのこの男は、愛すべき人間を差し置いて誰よりも人間臭い。臆病で愚かでちっぽけだ。私は人間なんて愛していないけれど、彼のそういうところは愛しいと思う。わざわざ言ってなんかやらないけれど。

「臨也、この後出かけるの?」
「……」
「臨也、出かけるならラップかけて冷蔵庫しまっとくけど、どうするの? 食べるならもうできてるよ」
「……は? なに」
「ご飯! どうするの? 食べるの? しまうの?」
「そんなのまだ解らないよ。適当にしといて」
「適当にすると、作ってあることさえ忘れて放置するじゃない。無駄になっちゃうし体にもよくないから、夕飯くらいちゃんと食べなよ」
「はいはい」
「聞いてる? 最近また痩せたよ、臨也。テンションだけで乗り切れるような呑気な仕事じゃないんでしょ、ちゃんと食べな、」
「ああもう、うるさいな! 何なんだよ! 今大事なこと考えてるんだから関係ない奴は黙っててくれ」

 こちらを見もしない臨也に辛抱強く呼びかけていると、大声で怒られ肩が跳ねた。
 臨也の怒鳴り声なんて初めて聞いたので言葉が出なくなってしまう。彼はハッとしたような顔をした後、再び隠れるように後ろを向いた。

「……波江さんが仕事に来ない日、ご飯作ってくれって言ったのは臨也じゃない。そんな邪魔者扱いしなくたって」
「わかってるよ、悪かったね。君の言うことはいつだって正論だし、卑怯でせこくて間違ってるのはいつも俺だ。わかってるよそれくらい」
「……臨也?」

 やはり明らかに変だ。いつも変だけれど、今日の彼は彼が折原臨也だということを差し引いても変だ。何かあったのだろうか。そう聞きたかったが、ピリピリした空気の中で私は口を開くことが出来ない。

「……ごめん。今日はもう帰ってくれない?」

 打って変わって弱々しい声が背もたれの向こうから聞こえてくる。黙って帰るのが優しさか、そうでないか、それが問題だ。悩みながらもソファーに置いてあったコートを小脇に抱え、玄関へ向かおうとしたのだが、デスクの書類の影から覗くタブレット錠がふと目にとまり足を止める。

「臨也、具合悪いの?」

 問いかけると、彼はデスクの上をがさがさと触りタブレットを適当な隙間に挟み込んだ。

「別に、たいした薬じゃないよ」
「でも」
「……新羅に貰った頓服の安定剤みたいなもん。ああ、もちろん合法」

 薄っぺらい笑みを顔に貼りつけて言う臨也に、なんて言おうか迷っているうちにその顔は曇った。

「……そんな目で見るなよ。俺みたいな生き方してるとね、こういうのが必要な時もあるの。でも別に誰かに強いられてこうしてるわけじゃないし、同情されると困る」
「同情なんて……するわけない」
「……そ」
「心配してるんだよ」

 臨也は言っている意味が解らないという顔で視線をさまよわせた後、溜息をついて椅子から立ち上がった。部屋の端に置かれた観葉植物の葉っぱをいそいそと指でこすりながら、独り言のように言う。

「こういうシワ寄せみたいなとこ、本当は誰にも見せたくないんだ。無様なだけだし、当たり散らしちゃうからね。最低な生き方を選んだのは俺だ。せめて楽しそうにしてるのが世界への礼儀ってもんだろう?」
「……馬鹿じゃないの」
「……」

 諦めたように弱みを見せた彼に対して、私はといえばひたすらに腹が立っていた。何を今さら、この男は世迷いごとをほざいているんだ。

「料理が好きって理由で、私がここに来てるとでも思ってるの?」
「……は?」
「家政婦がしたけりゃもっとまともな雇用主を探すわ! 人間が好きとか言いながらそうやって人と関わることから逃げてばっかいるから、いつまでたっても一人ぼっちなんだよ臨也は!」

 私が気遣いモードになっていると勝手に思っていたらしい彼は、思わぬ一撃に一時停止する。

「一方通行が嫌なら、そんな高みに逃げ込んでないで降りてきてよ! 降りてきて触ってよ! 両想いは怖いもんなんだよ、いつ嫌われるかわからないから! でもだから、好かれようって思うし、好かれてるって思うし、そうじゃなきゃ、そうじゃなくちゃ、かな、かなしいでしょ……」

 最後は嗚咽交じりで自分でも何を言っているか解らなかったが、私はめげずにずいずいと彼に近寄った。
 角に追い詰められた臨也は母親の様子をうかがう子供のような顔をしている。

「……とって」
「……え」
「とって! 手を!」

 強く言うと、臨也はおずおずと私の手を握る。重なった掌に頬を寄せた。臨也は小さく小さく息を呑んでから、ゆっくりと私を抱き寄せた。

「やっぱ痩せた。ちゃんと食べてよ」

 見上げて笑うと、臨也の涙が落ちてきて顔につたう。
 うんそうだ、きっとこういうこと。


2012.2.17

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