ピッ。
と改札を抜けて、駅ビルに向かおうとしたら隣から歩いてきた人とぶつかってしまった。
新宿九時半、まだまだ人は多い。
「あ、すいませ」
「いえ。………名前」
振り返った男は、驚いたように私の名前を呼ぶ。
もしかして、と思いつつも流そうとしていた私は、諦めて顔を上げた。
「臨也、久しぶり」
かねてよりきみは
私たちは付き合っていた。
高校二年の春から冬という短い間だけど、一年弱の青春が私にもたらしたものは大きい。その年齢とこの相手じゃ当然だ。普通ではできない体験をいろいろとしたと思う。
でも不幸だったわけじゃない。
浮世離れした臨也が自分とありきたりな恋愛をしてくれるのが嬉しかったし、高校生なりに、というか、臨也なりに私のことを大事にしてくれていたと思う。
もちろん当時から臨也にはいろんな噂があって、その大半がロクでもないものだったけれど、『犬猿の同級生を利用して違法ギャンブルの手引きをしている』なんて知ったところであまりに現実味がなく、彼を嫌う原因にはならなかった。
別れたのはもっと、どうでもいい理由だった気がする。それこそありふれた高校生のような。まあ、その頃はそう思えなかったから別れたのだけれど。
「そういえば、俺らってなんで別れちゃったんだっけ?」
何杯目かのウィスキーをテーブルに置きながら臨也が言った。
少し不満げな横顔がかわいいだなんて、断じて思っていない。
「さぁ、臨也が浮気したからじゃなかった?」
「…バレるような浮気はした覚えないけど」
「やっぱしてたんだ」
「冗談だよ。してないって。たぶん」
「まあどっちでもいいけど」
失笑しながら私も自分のグラスを覗き込む。こうやって甘くないお酒を時間をかけて飲むくらいには、二人とも歳を取った。そりゃ、少しは感傷的な気持ちにもなる。
臨也はそんな私を見て楽しそうに言う。
「ほんとは引きずってんじゃないの」
「…男って元カノに対して自意識過剰だよね」
余計なことを勘ぐられたくなくてバッサリと切り捨てた。
大体こいつは人の弱味を見て見ぬふりしてくれるほど、昔から優しくないのだ。
「かわいくないなぁ。すれちゃって」
「昔からこんなもんだよ」
「馬鹿言うなよ!」
珍しく語気を荒げた臨也に驚いて隣を見る。彼は目をつぶり首を振っていた。
「名前は全部、俺が初めてでさ。かわいかったなー」
それは言わないお約束のことをあっさりと言われ、飲んでいたものを吹き出しそうになった。
「ちょっと!変なこと思い出さないでよ勝手に!」
「勝手に?俺の記憶は俺の物なんだから、いつ何を思い出そうと勝手だろ。初めてエッチした時の名前のかわいい姿を何度頭に思い描こうが文句言われる筋合いはないね」
人の嫌がることを的確に言う性格は本当に変わってない。より感じ悪く見えるのは、きっと私が恋をしてないせいだ。
「臨也だって昔はかわいかったし…!少なくとも今よりは!」
「胸張って言えるけど、俺は昔からこうだよ」
その通り過ぎてなにも言えなかった。でも自慢できることじゃ絶対ない。
嫌いで別れたわけではない臨也と街でばったり会ったりなんかしたら、やけぼっくいに火が付いておかしなことになるんじゃないかと思っていたけど、そんなことは全く無く、ある意味安心した。
ちらりと腕の時計を見ると、もういい時間だった。
出る?と聞かれ頷く。
割り勘でいいと言ったのに結局全部臨也が払ってくれて、彼が今ファイナンシャルプランナーとやらをやってると、人づてに聞いたことを思い出した。
この先彼はどういう風に生きていくのだろう。生活感のないこの男の人生設計を予想するのは難しかった。
「…臨也と付き合う人って早死にしそう。ストレスで」
「酷いな、人を生活習慣病みたいに」
「これからも犠牲者が増えると思うとやり切れないよ」
「付き合ったらちゃんと大切にするさ。それに彼女は名前の後、一人もつくってないよ」
あまりにもなんてことないように言うものだから聞き流しそうになったが、私はえっと臨也を二度見する。
ポケットに手を入れながら、彼は新宿の街を飄々と歩いている。
「……そんなに面倒くさかった?私」
「まあ、そういうんじゃないけど」
「じゃあどういう、」
「別に。わざわざ彼女にしたいって子も現れないしね」
続けざまにさりげなく、彼は私を揺さぶる。
確信犯なのか無自覚なのか解らないけれど、私はとつぜん脇腹を槍で突かれたような気持ちになり、顔を上げることができなくなった。
「あ、火い付いちゃった?」
「馬鹿じゃないの…」
ちゃかす臨也にろくな反撃もできない。どころか恥ずかしくてまともに息もできない。
「…なに名前、本当に?」
どうやら臨也のくせに無自覚なパターンらしかった。少し引いてるのが解って泣きたくなる。
本当に?じゃないよ。本当に臨也は馬鹿だ。馬鹿馬鹿馬鹿。
「…昔からそうだよ。責任取れないことばっか言って、私は振り回されてばっかだ」
「責任、ね」
彼は呟いて、私の腕と肩に手を置く。そのままぐいぐいと幅寄せされ、あれよあれよと言ううちに路地裏に押し込まれた。
何事かと思って顔を上げると顎の下に手のひらを宛がわれ、やっと迫られてることに気付く。
「冗談やめて」
「無理」
噛みつくようなキスに抗議の声をあげるが、すぐさま入り込んできた舌に文句ごと絡めとられてしまう。何も言えなくなって、悔しいけれど臨也が飽きるのを待った。顔が熱くて涙がにじむ。
「はっ、訂正。やっぱ名前全然変わってないよ」
臨也は苛々しているように見える。なぜ襲った方が怒ってるんだ。
「シャイなくせに、男誘うような態度ばっかとってさ」
「誘ってない。臨也だってそういう自意識過剰なとこ変わってない」
ムッとしたのか、臨也はもう一度唇を合わせてきたが今度は口なんて開いてやらなかった。
「離してよ」
「だから無理だって。とにかく、俺はもうその気になったから、うち寄ってきなよ」
「その気ってなに!」
「いいから」
呆れるほど変わってないのは臨也の方だ。
格好つけ屋でやせ我慢ばっかかと思いきや、こうやって臆面もなく子供みたいな我が儘を言って私を困らせたりする。
根っからの理論派と見せかけて、意外と身内には力任せなのだ。
彼は私の手を引き、灯りの落ちない飲み屋街を足早に横切る。
「離してってば」
「絶対無理」
右手を痛いくらいに強く握られて、私は臨也を好きだった理由を思い出した。
この人は単純に、愛に飢えているんだ。なんて馬鹿なんだろう。
2011.12.17