街と天国のはざまで



 昔から高いところが好きだった。単純にたくさんのものが見えるっていうのもあるし、人より高い位置に立つという行為はそれだけで俺に高揚感をもたらす。立場や視野の違いは、そのまま自分の特異さを象徴している気がした。中二病? そんなの自覚してる。中二にさしかかるよりずっと前から。

「夜景を見せてくれるって言うからついてきてみれば、ずいぶん裏ぶれた景色だね」
「何言うのさ、これだって立派な夜景だよ」

 テナント募集のシールがぼろぼろに剥がれ落ちて茶色くなってるような廃ビルの屋上に、彼女を連れ出していた。池袋の中心部からだいぶ離れたそこは繁華街の煌々とした明かりを遠くの方にくぐもらせ、夜の中に沈んでいる。まさに都会の暗部といった雰囲気だ。
 人っ子一人見当たらないシンとした場所だが、ここから飛べば絶対死ねるってんでその筋の人には人気スポットだったりもする。そして、俺が以前ちょっとした遊びに使っていた場所でもあった。

「足滑らせるなよ」

 より高い場所へと、よく登っていた貯水タンク室の上に名前を引き上げる。人が登るところではないので当然梯子などない。二人で上に座って下界を眺めると、名前は自分の身体を抱くようにしてぶるりと背筋を震わせた。俺と違い彼女はあまり高い場所が好きではないみたいだ。コンクリートに刻まれた正の字をなぞりながら何の数だと思う? と聞けば彼女は顔をしかめ、あまり知りたくないと言った。

「名前の好きなものって何?」
「私の好きなもの? ……うーん、なんだろ。読書、とか?」
「面接じゃないんだから」
「ほんとに好きだよ」
「ふーん。あとは?」
「……果物とかお好み焼きとか、あ、最近は牛乳プリンが好き」

 本当は彼女の好きなものくらいあらかた知っていたが、その口から聞きたかった。自分の好きなものもろくに思い出せない能天気さが笑える。名前の思い出せない名前の好きなものを頭の中で羅列しながら、少し傾いた無防備な横顔を眺めた。風に吹かれマフラーが前に靡いている。
 このままトンと背中を押したら彼女はどうなるだろうか。下は屋上のコンクリートだが、なにも十何階じゃなくたって人は固い床に落ちれば簡単に死ぬのだ。

「俺は? 俺のことはどう?」
「臨也? 臨也は……」

 名前は俺の方を一度見てから、ふいと前を向いた。自分の膝の両脇に手を付いて足をぶらぶらさせている。押さなくても落ちてしまいそうで、今度は逆に心配になった。こいつはそそっかしいから見てるとヒヤヒヤするし、ヒヤヒヤする自分にイライラする。それなのに、目を離すことが出来ないなんて。

「わかんない。わかんないけど……臨也といると胸がこう、苦しくなるんだよ」
「……なにそれ、告白?」

 予想外の答えに今度は俺が首を傾けた。彼女は本当に、いぶかしい。

「違うよ。いや、わかんない。だって嫌いすぎて苦しくなることだってあるじゃん」
「ないよ、そんなの。好きなんだよ。名前って馬鹿なの?」
「だから、わかんないんだってば」
「わかんないねぇ……」

 俺も前を向き、考えるふりをする。実際は考えるのも馬鹿らしいのだが。

「そういうさ、押せば落ちるみたいなこと言わないでよ」
「なんで」
「押したくなるから」

 俺は彼女の背中を押すかわりに、後ろからぞんざいに抱き締めた。彼女は抵抗する素振りもなく腕の中に収まっている。何を考えているのか解らないけれど、少しすると体の力が抜け少し重くなった。もぞもぞと振り返り、俺を見る。

「あ、うん。やっぱ好きかも」
「そう……」

 決まりが悪いが、たぶん俺たちはこんなもんだ。
 池袋は飽きもせず光っている。どこからか黒バイクの鳴き声が聞こえた。


2011.11.25

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