八千代に光る



暮れかけの夜空のような深い濃紺に、薄い水色の花びらを染め抜いた浴衣に袖を通す。
それは母さんからのお下がりで、お世辞にも若い子向けの華やかな柄とは言えない。しかし鮮やかな山吹色の帯を締め、まあるい翡翠に藤の花の布細工が垂れ下がる簪で髪を結い上げれば、否応なしに胸が高鳴った。

いつもより少しだけ濃いめの紅を差し、軽く白粉をのせる。

なけなしのお小遣いで買った有名小間物店の匂い袋に、小さな鈴の根付けを結って帯の内側に忍ばせる。
帯から垂れ下がる金色の鈴が、歩くごとにチリンと音をたてた。





だんだんと日が暮れて屋台の明かりや提灯の火が闇に浮かびだす。
見慣れたはずの通りから現実味が薄れてゆき、ふわふわと心が浮足立った。

一年ぶりに嗅ぐ香ばしいソースの香りや、クリームを焦がしたような甘い匂い、湿気を含んだ夜の空気に混じる、水風船のビニールの匂い。いたるところから響く太鼓と笛のお囃子。五感がいつとも知れぬ夏の思い出を懐かしむ。すれ違う人達は子供も大人も一様に幸せそうな顔をしている。

それを見てわけもなく気が急いた。祭が逃げる訳でもないのに。早く私もその幸せの渦中に飛び込みたい。カラコロと漆の下駄をならす。
待ち合わせの辻にはすでに四人分の影が見えた。

屋台の列の一番外れ。
そこから始まるお祭りの光を背景に立ち並ぶ四人。
待ち合わせをしている人はそこかしこにいたが、目立つ銀色のおかげで私はすぐに発見できた。まあそれでなくても彼らは充分目立つのだが。
駆け寄る私に気付いた銀色頭がこちらを向く。

「おっせーよ名前」
「走ると転ぶぞ」
「おー似合ってるのー」
「…寸胴」

四者四様に好きな事を言う男たちに、ごめんごめんと笑いながら近付く。(最後の言葉は聞かなかったことにしよう)
それぞれの夏の装いに一通り茶々を入れたのち、私たちは一晩限りの夢の国に足を踏み入れた。


「あわわわ銀ちゃん!林檎飴たべよう!いや、先にチョコバナナ!?」
「いや、待て、落ち着け…!序盤で張り切りすぎると後半悲しい思いをすることになるぞ名前!俺達の財布には限りがある!」
「ふん、浮かれおって貴様ら。まるで子供だな!」
「うっせーヅラ!大人ぶってんじゃねぇ…っておわぁぁ!」
「ヅラじゃない、オカメだ」
「お前ぇいつのまにお面なんて買ったんだ!お前が一番浮かれてんじゃねーか!」
「あっはっは浴衣美人がいっぱいじゃー祭はいいのぉ!」
「オイおめーら、そんなチンタラ進んでたら花火の時間までに屋台抜けられねェじゃねぇか…!」
「あ、じゃあ晋助、先行って場所取っといてよ!」
「ざけんな!」

わいのわいのと騒ぎながら提灯と裸電球に照らされたべっこう色の路地を少しずつ進んでいく。

「あはは!銀ちゃん!」
「何だよ」
「共食い!」

白いフワフワの綿菓子を頬張るフワフワ頭を指差して笑う。

「…うっせー」
「うそうそ、一口ちょうだい」
「やらねーよ」
「いいじゃない一口くらい、ケチ!綿菓子あたま!」
「あだだだ髪引っ張んな…!」
「コレコレ喧嘩するなおんしら。名前、わしが金魚とっちゃるきー」

振り返れば、袖を捲り上げポイ片手にしゃがみ込む辰馬の姿が目に入る。なんてゆうか…凄い様になってる。

「ほんと?」

にんまり笑う辰馬の横にしゃがみ込んだ。
チラチラと揺れる鮮やかな水槽を眺める。

「あ、あれがいい、あの、ちっさくて真っ赤でヒラヒラしてるやつ」

隅っこにいる一匹の金魚を指差すと、彼は普段の様子からは想像もできない慎重さで、赤い金魚の下にポイをするりと忍び込ませた。
そしてなんてことない動作で簡単にそれを器の中へと掬い入れる。

金魚は広い水槽から丸い器に自分が移動したことにさえ気づいていないようだ。幸せそうに尾をヒラヒラさせている。ステンレスの鈍い金色の中でえんじ色に輝いている。

「ホレ」
「わぁ、うまいね、たつま」
「次はどれがええかや」
「ううん、もういい。この子だけでいい。ありがとう」

屋台のおじちゃんにキュッと袋を締めてもらい、パクパクと漂う金魚を見つめた。かわいい。

「ね、見て!しんす……あれ?」

ご満悦で振り返った先に目当ての人物はいない。

「…晋助は?どこいったの?」
「さぁな、先に神社の方に行ったんじゃないか」
「そっか」

たしかに花火を満喫するには、神社の階段を上って鳥居の内に入っておく必要がある。
去年見つけた人の少ない穴場で一緒に見ようと約束してたのに、はしゃぎすぎてすっかり忘れていた。

ドンッと最初の一発目が空に咲く。
私は思わず駆け出していた。

「おい、名前?」
「こたろ!銀ちゃんとたつまに、上居るって言っといて!」

確かこっちの脇道を登って行けば、ちょうど神社の横に出るはずだ。今から大階段まで回ってたら、花火が終わってしまう。小太郎に林檎飴とタコ焼きを押し付け、細い道へと入った。

真っ暗な上り坂をカラコロと駆け上がる。
昼に一度通った事あるし、と油断してたが夜は明かり一つなく足元が覚束ない。背の高い木々に囲まれているうえ道幅も狭いため、空を照らしてくれるはずの花火も切れ端ほどしか見えない。
ドン、ドン、と鈍い音だけが頭上に響いた。

一本道だから大丈夫と自分に言い聞かせ、ひたすら走っていたけれどいつまでたっても景色が変わらない。もう随分登ったはずだ。本当にこの道でいいんだろうか。
ぞくりと背筋が寒くなる。

立ち止まりハァハァと息をつく。汗ばむほど暑いのに鳥肌が立っていた。暗闇の中、遠くで鳴り響く祭囃子が方向感覚を狂わせる。右手に一つ携えたままのビニール袋の中で、金魚だけがうっすらと光っている。
さっきまでの賑やかさが別の世界の事のようだ。

やっぱり一人でこんな道通るんじゃなかった。ちゃんと晋助と一緒に階段を上ればよかった。
不安と暗闇のせいで、小さい子に還ったような気持ちになる。

しんすけ、しんすけ。
心で唱えながら闇雲に歩き回る。少し視界が開けたと思ったら、突然パアッと空が明るくなり闇の中に人影が浮かび上がった。

いきなりのことに驚いて声を上げるが、ドォンという轟音に掻き消されてしまう。

一瞬の静寂のあと、代わりに耳に響いたのは聞き慣れた、欲していた声。

「…お前、こんなとこで何してんだ」

ていうかどっから涌いた──。

呆れる晋助に思わず飛びついた。
必死に歩き回った末たどり着いたのはどうやら去年二人で見つけた神社内の穴場だったようだ。

「オイ、なんだよ、てか冷てっ」
「あわわわごめん…!金魚の水が…」
「金魚?」
「うん。たつまがとってくれたの」

うっかり体に押し付けた袋の中の、その子が無事か確認しようと目の前に掲げる。

「赤くて、ちっさくて、ひらひらしてて、晋助にそっくりでしょ?」
「…殺すぞ」

二人の間で相変わらずパクパクと呑気にしている金魚。
ビニール越しに晋助と目が合った。
思いの外近い顔と顔にやっと気づき、距離をとる。

「お前化粧してんだろ、いっちょ前に。女の匂いがする」
「…ちょっとだけだよ。匂いなんて、しないはずだけど」
「いや、する」

ぐるぐる巻いた帯が暑いのと、走ったせいもあって私は汗をかいていた。
恥ずかしくって近寄らないよう手で制す。しかしそんなものは無視して晋助は猫のように私の頬に鼻をよせてきた。

「しんすけ、」
「……」

これは、汗がどうとか以前にとても恥ずかしい。晋助の顔をこんなに近くで見たのはいつぶりだろう。恐らく私たちにまだ男も女もなかった、ガキンチョのころ以来だ。

「晋助、花火見なくていいの」
「いい」
「へ、へんなの。あんなに見たがってた癖して」
「いいんだよ」
「私は見たい、ねえ、退いて。晋助、」
「ちょっと黙れ」

晋助が顔を横にずらしたため、唇に唇が重なった。
てのひらがゆっくりと頬を撫でる。思わず閉じた瞼の裏に、色とりどりの花火が映る。

私は体が強張るような力が抜けるような不思議な感覚にさいなまれて、右手に握る大事な金魚を、落とさないようにするので必死だった。


2009.?.?

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