夏きにけらし




「桂さん、何を見てるんですか?」
「ん?いや、鷺をな」
「鷺ですか」

私が隣へ並ぶと桂さんはほら、と遠くを指差した。高台にあるこの宿は前庭から望む景色がとても良い。

ぴしりと地平を覆う街をさらに覆い込む広い広い空、その隙間に薄く伸びる峠のすそのに、確かに数羽の鷺が羽ばたいていた。夏の陽に照らされ白い翼がちりちりと光る。

それが眩しいのか、桂さんは珍しく眉根を寄せ難しい顔をしていた。涼やかな輪郭のまぶたがすうと細められている。
私はその繊細な変化に気付かないふりをして万葉集の景色みたいですね、と言った。

「そうだな。風流じゃないか」
「桂さんは風流人ですか」
「俺を誰だと思ってる」

まいど長逗留の革命家は腕を組み頷く。

「こんな日はだな、市外に出て蕎麦を食い、暑い中ふーふー言いながら蕎麦茶をすするのが風流人の嗜みだ」
「……桂さんいつも、あっつい!もうすごいあっつい!って言いながら汗だくで帰ってきて、羽織り脱ぎ捨てて縁側で伸びてるのそのせいですか。なんなんですか。マゾなんですか」
「マゾじゃない桂だ」
「羽織りと足袋片づけてるの、いつも私なんですからね」

街ではきっちり着込んでいる彼も、さすがにこの季節はこたえるのか帰ってくるなり宿の一番風の通る場所を見つけては着物を緩め横たわり、時にはそのまま眠ってしまう時すらある。

板の間に伸びる素足を見るたび、夏という季節は男を少年に戻すのだろうかと可笑しくなった。

「それはすまん。俺は男やもめのわりには潔癖なつもりだが、お前が居ると思うとどうも気が抜ける」
「もう、私はお母さんじゃないんですからね」
「そうだな、お母さんという歳ではないな。いや、この宿にいる間はどうも新妻でも貰ったつもりになってしまっていかんな」

桂さんははっはっはと豪快に笑いながら縁側に座った。
本人からしたら何の気なしに言ってる冗談の類なんだろうけど、枯れたご隠居やいかにもな遊び人でもない限りあまりそういうことは言わない方がいいと私は思う。
仮にも桂さんは、こういう容姿をしているんだし。彼はどうもそういうところに無頓着というか、無防備というか、まあおよそ嫌みのない無邪気さを持っている。

「私はあなたのお嫁さんでもないんですからね」

今度は少し拗ねた様子で言うと、桂さんもまたふっふっふと少し違う笑い方をした。……なんだというのだ。

いつの間にか薄暗くなっている庭から、宿の明かりが橙色に光って見える。風もようやく涼しくなり、開け放たれた縁側から熱気のこもった建物内へ夜の空気がするすると滑り込んでいく。

街よりいくらか高い場所に位置するこの宿は、景色以上に過ごしやすさが夏場の売りである。私も下駄を脱ぎ、お客の世話に戻ろうと廊下へ上った。

「髪が伸びましたね」

私はもう慣れ親しんだ常連なのだしいいだろうと思い、後ろから灯りの色に染まった彼の黒髪を掬い一つ結いのように持ち上げる。筆の先のようにしなりと垂れた髪の先がうなじに当たりくすぐったいのか、桂さんはふむと首に手をやった。

「そうだな。切ってくれんか」
「えっ!」
「少しだぞ、少し」

腕を組みなおし笑いながら、彼はこの位置からじゃ見えはしない街を眺めるように遠い目をする。

「急に身辺が軽くなるのには慣れんからな」

その横顔は涼しげ、というより少し寂しげで、いつでも泰然自若とした印象の彼の弱い部分を見たような気がした。
気がしただけで、夏の夕闇のせいかもしれないけれど。

彼が落としたり失くしたりしてきた物を超えるくらいたくさんの物を、私が彼に与えられたらいいのに。
何の代わりにもなれないけど、理屈じゃなくて、喪失感をかき消すほどの愛とか、例えばそういうものを。

さっきだって桂さんは、本当は鷺なんかを見てたんじゃないのだと思う。

「明日も晴れたら、ここに新聞紙をひろげて切ってあげますよ」
「すまんな嫁っ子」


革命家の目指すところ



2011.7.13

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