「名前、其方は朕の生殖器をどう思う?」
出し抜けにそう尋ねた目の前の男──曰く雌雄を超越した真人であるらしい彼の顔に、言葉に見合う下世話さはなかった。生物学的なことだろうか、それとも生命倫理の命題だろうか。どちらにせよ、私にとっては専門外のことである。
もしくは、もっと個人的な所感を求めているのだろうか。それならば余計に私から言うべきことはない。
「ふむ、聞き方を誤ったな。単純に、生殖器のない朕に対し、性欲や繁殖欲を伴う恋情を抱いているのだとしたら、そこに些かの矛盾と懸念を感じたのだ」
どうやら、彼の意図は三番目の予想に近いようだった。予想の中では一番悪く、私はさらに沈黙を深くする。
「繁殖を目的とするならば他の個体をお勧めするぞ。性欲に関しては努力次第で解決できなくもないが……」
彼の忠告と気遣いは、どちらも明後日の方向だ。たしかに私は彼に恋をしている。不覚ながら、先日本人にも告げてしまったことだ。始皇帝はその事実に朗らかな大笑を響かせたが、そもそも愛を告げられ大笑いするような人物に、人並みのデリカシーを求めても仕方がないのかもしれない。
「繁殖とか性欲とか、そんな単純な話ではないです」
「では何か。造形に惚れたか。それならば納得はいく」
「……そこに冷めたお茶があるので飲んでいてくれませんか」
談話室の一番奥、休憩の際に二人分の茶を淹れるようになったのは最近のことだ。彼は温かい緑茶を大いに気に入り、それを透明な耐熱グラスに入れることを好んだ。新緑の青の中に滞留する細かな茶葉のかけらが、カルデアのLEDを受けきらきらと透けている。
「朕に惚れておるのに、朕に辛辣なのは何ゆえか?」
「あなたのデリカシーのなさが異次元だからですよ」
「異次元から来たのだから仕方あるまい。悪気はないのだが」
始皇帝は少しだけ口を尖らせて、その姿の示すとおり鳥のような顔をした。今はどこかにしまっているらしい大きな両翼は、森羅万象を一身に担う彼の象徴のようなものだ。触れたらどのような感触なのだろうと密かに気になっているが、背後をちらりと覗いても今日はその片鱗すら見えなかった。一体どこに隠しているのだろう。計り知れない構造である。
「わ……わかっています。価値観も倫理観も、何もかもが違う世界からきたのだから噛み合わないのは当然なんですが」
私はうつむき、自らの指先を見た。今は何の誓約も嵌らない十本の指。同時に悲しいような嬉しいような気持ちになって、目を閉じる。
「でも、傷つくものは傷つくんです。私はあなたの造形や見目のみに惹かれたわけではない……と思うし」
「ふむ愛らしい。恋とは女人をこうも彩るものか」
彼は珍しい鉱石を手にとって眺めるかのように、躊躇なく私の顔を持ち上げた。自分が今どのような顔をしているかわからず、けれど真正面から観察されることにはとても耐えられず、彼の手首を掴みながら顔を逸らす。
「あのですね、いくら儒を知らぬ王とはいっても、」
「誤解をしているようだが、朕は民に儒を与えなかったというだけで、朕自身が儒のなんたるかを知らぬわけではない」
彼の言葉にはたと動きを止め、私は言われてみれば当然のことに思い当たる。
「むしろ長き生涯において、それらを見尽くしたからこその到達点である。真人たる朕は人としての感情、感性、価値観に至るまでもを全て、己一人で補完したのだ」
「補完……」
「ゆえに己の情操の生育には熱心であった。よい芸術に触れ、聡き者と話し、みずみずしい心を保ったものよ」
「……じゃあ、そのデリカシーのなさは個人の問題ということですね」
千年、二千年と生きる中で少しずつ浮世離れしたのか、それとも生まれつきの性格なのか。おそらくその両方の相乗効果なのだろうが、長い爪を今度は自分の頬に添え、小首を傾げている始皇帝に悪びれた様子はない。
「恋が人にとっての必須要素であるかは置いたとして、まあ人を知るにおいて避けて通れぬ感情よな。恋は戦争を生み、芸術を生み、文明を促進し、国を傾ける。あらゆる物事において、底なしの動機となるのが恋だ」
「……あなたも恋をしたのですか」
「さて、どうであったか」
彼にしては珍しく、曖昧に誤魔化した言葉の示すところは言われずともわかった。べつに歴史に嫉妬をするわけではない。けれど大河の歴史であろうと、結局は人と人の感情の賜物なのだと思い知る。
「そんな顔をするでないわ。心が痛むであろうが」
そんな顔とはどんな顔だろう。私はまた疑問に思い、自分の頬に触れた。なんだか脱力して張りがなく、ひどく困惑しているように感じる。
「私だって……初めてのことなんです。恋なんて、自分には無縁のものだと思っていた」
それがどうして、異なる世界にてサイバー羽化昇天を果たした不老不死の始皇帝なんていう複雑な者を相手にしてしまったのか。入門編にしてはいくらなんでも難易度が高すぎる。
「それから、初めの質問への答えですが……私の抱く恋心は性欲を伴うそれですよ」
私の恋には蓄積がない。つまり失うものもそうない。そのようなやけっぱちに近い感情から、素直に白状すれば、彼は目を丸くして考え込んだ。
「どうしたものか」
「どうもしなくていいですけど」
「どのように抱けばよいか」
「抱かなくていいですってば!」
「何ゆえか。朕に劣情を抱いておるのだろう」
「れ……恋情と言ってください」
噛み合わない会話は白く大きな巻貝の奥に今日も吸い込まれていく。清流の袖口と、まっさらな白衣。黄緑の茶に透明な器。すべてがちぐはぐで、けれど不思議と融和している。カルデアとはそういう組織なのだ。少なくとも、私の見る限りでは。
2020.7.19