灰と新緑


 恋というものを賛美するつもりはない。けれど裁かれるほどの罪でもないと思う。
 なぜなら多くの場合そこに選択肢や決定権などはなく、我々はただ呆然と事後承諾をするのみなのだ。

「ほう、若蒸しの茶葉か。香りが良い」
 碧い袖をなびかせて、彼はカップの縁をなぞる。どこにでもある耐熱性のガラスカップだ。中にあるのもまた何ら変哲のない温かな緑茶である。
「硝子の茶器に緑の茶。たぴおか、やら、かぷちいの、などという突飛な飲料と比べれば大分馴染みある形式ではあるが、ついぞ大陸には発生しなかった茶道でもある」
「そうなんですか」
「美しい色だ。初夏の麦畑を思わせる」
 螺旋状に並ぶ談話室の一番奥、巻貝のようなカルデアの最深部で、つかの間の休息をとろうとしていた。この場所を選んだことに他意はない。けれど思えば無意識のうち、期待していたのかもしれない。
「先日までしていた指輪はどうした?」
 始皇帝の赤い隈取りは、ときにその目を鋭く見せる。鷹のような目に捉えられ、私は自分の薬指をさすった。
「よく見てるんですね」
「興味があった」
 端的に返された言葉にうっかり動揺しそうになるが、きっと意味合いが違うのだろう。彼はこの世界の因習を識ることに余念がない。
「外しました。ノウム・カルデアでの作業は以前よりも力仕事が多いので」
「婚姻の証、であったか」
「婚姻の約束、です。結婚するはずだったんですよ、私」
 過去形の発言と、他人事のような響きに目を細めた彼へ向けて、私はとっさに言いつくろう。
「婚約者は……下界の人でした。結納のため故郷で会ったのを最後に、私もこの施設に詰めていたのでそれっきりですが」
「ふむ。では既に」
「すべて真っ白です。夫になるはずの人も、彼のいた街も、何もかもが白紙化された光景をこの目で確かに見ました」
 今ここにいる人々以外、皆消え失せたのだと理解するには充分な白さだった。存在する者と、それ以外。そこには生死よりも深い断絶が横たわる。こうして彷徨海の真ん中に拠点を再建した今でも、白い大地を駆け抜けたストームボーダーのがりがりという走行音が耳から離れない。
「愛する者が世界ごと消え失せる焦燥は、其方らの行動原理でもあろうな」
「……愛せなかったんです」
 別の世界の人になら、言ってもいいと思ったのかもしれない。口をついて出た無責任な告白に、私は一度深く息を吸い、それからまたゆっくりと吐き出した。
「愛して、いなかった」
「では何ゆえ婚約を。其方らの世界、とくにこの時代において婚姻は自由意志に基づくものであると聞くが」
「そうでないことだっていくらでもあります。とくに魔術に関わる家系では、まだ家同士の繋がりが重視されているから」
「婚姻による繋がりなぞ、そう大した縁とも思えぬが。現に朕の築いた皇国では、夫どころか親子の認知すら無く、ただ子は年配を慕い、大人は若輩を慈しんだ。同年といえど競いはせず、皆が円満な協力関係にあった。血縁による差別もなく、一族による排他もない。集団としてあるのは共生のための機能のみだ。それで何という不便もなかった」
 儒を知らぬ民は、個に固執するほどの情操を身につけず、生殖はただ集団の利益のためだけに機能していたという。交れども恋を知らず、ただ愛だけを分け合って、穏やかに、健やかに共生をしたのだ。
 けれど──本当にそうだろうか? 本当にその感情は「与えない」という天の采配により排除しきれたものなのだろうか。
「恋を知った者はどうなりましたか」
 不意に尋ねた私の声に、それまでとは違う気迫を感じたのか、始皇帝はわずかに哀れむような顔をした。それがわかっても今さら引っ込みがつかず、私は顔をほてらせたまま質問を続ける。なんだかさっきから、暑いような寒いようなおかしな心地だ。震えながら汗をかいている。
「誰かに執着をし、また誰かに嫉妬をし、共生の和を乱す穏やかならぬ情念に身を焦がした人間は、どうなりましたか」
「……儒は伝播する。たとえそれが突然変異的に生まれた、個人レベルの誤作動であったとしても。情念というものは何よりも感染力の強い病原菌のようなものだ。ほうっておけばあっという間に蔓延し、集団を腐らせる」
「なので丸ごと焼くしかないと」
 私の言葉に浅い笑みを作った始皇帝の真意は、それだけで充分に伝わった。彼は続けざま、駄目押しのように「うむ」と頷く。力まず、悪びれず、躊躇いのない簡潔な肯定だ。粟立っていた背中の悪寒がぞくりと全身に広がって、一気に体温が下がる。
 彼が村々の人数を中規模にとどめていたのは、そのように集団ごと排除しても人類の繁栄に支障をきたさないためだ。痛んだ幹部を切り落とされ、胴体だけで生存する被験体。水槽に浮く塊はどこまでも穏やかで、優しい顔をしている。
 彼は驚異的な感染力と言うけれど、きっとそんな大したものではない。儒とやらを排除された環境が、それだけ不自然であるというだけだろう。
「ほんの少しの綻びにより瓦解する安寧なら、それはやはり仮初めです」
「仮初めでなにが悪いか。真実など、常に求めるべきものではない」
 彼の横にいると着々と心身が冷え込んで、免疫力が低下するようだ。私は自分の両肘を抱き、指先で二の腕をさする。白衣の生地が妙に縒れるのは手に汗をかいているからだ。
「──などと、この世界に顕現せしめた朕が申しても詮なきこと」
 一方の始皇帝は、そう言って袖の先を涼しげに揺らした。天を向くツノ。風を纏う羽。裾口からは清流の如きせせらぎが聞こえる。一つの世界を体現したかのようなその風体に、私は己の無謀さを実感する。
「情の深き女。かつて朕が殺した者よ」
「……」
「その可能性を示してみせよ。身のほどに合わぬ生き様を晒し、恥と愚の果てにいかような生を輝かせるか」
 彼にはもうすべてばれているのだから、私にできることは指輪を外すことくらいだった。感情の伴わない婚姻に、さして疑問を抱かなかった過去の自分を戒めるため、罪のない指輪と、約束と、夫になるはずだった男の記憶を引き出しの奥に封じ込めたのだ。まるで真っさらな雪原のように、過去のことは私の中で白紙化されている。
 そうして見上げた美しき別世界に目がくらみ、私はしばし瞬きをした。
 選択する間もなく、決定した覚えもなく、気づけば落ちていたのだ。
「恋の欠陥は、相手を選べないことです」
「はははは、述べよるわ! しかし、ふむ。やはり碌なものではないな」
 それには半分同意だ。けれど完全には認められない。認めれば私は、彼に焼かれた多くの人を弔うことすらできなくなってしまう。
「辞めたくなったらいつでも申せ。朕自ら、焼き払ってくれようぞ」
 そう告げる始皇帝は邪悪なまでに楽しそうだ。けれど彼は悪ではない。無邪気すぎるものとは、時に底知れず邪に見えるだけだ。
 胸がおかしいほど締め付けられ、私は苦し紛れにガラスのカップを傾けた。こんな気持ちは碌なものではないけれど、やはり、裁かれるほどの罪でもないのだ。
 焼かれるものか、と目を閉じる。
 白い地表に光る巨躯が浮かんでいる。

2020.7.19

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