王様は、私がここへ来ることを嫌がる。
重い門扉はたいてい開かれており、迷える者の救済場として常にそこにあるが、この建物が街の人間を気安く受け入れているとはとても思えなかった。
日本離れした瀟洒な石畳を進み、両開きの木戸を押す。ステンドグラスから差す神秘的な光をぼやりとくすぶらせる堂内には、この場所にふさわしい簡素な長椅子が整然と並んでいる。
その中頃に座る人物が、私の目当ての人物であるとすぐにわかったのは、髪色以上に纏う雰囲気が大きかった。夜の街灯の下で見たときよりも更に、その肩は不穏さを帯びている。とても救いを求め、もしくは敬虔な信仰心からそこに座す者には見えず、私は思わず息を飲んだ。
こうして他所で見てみれば、とても関わり合おうなどと思えない迫力がある。私が立ち尽くしたまま静かに息をしていると、彼はゆっくりと振り返り、赤い目を光らせた。
「王様」
何も言わない彼のことが怖くなって、私は食い気味に呼びかける。焦ったような私の声が礼拝堂に響き渡ると同時に、持っていたビニール袋ががさりと庶民的な音を立てた。なぜだかそれにほっとして、一歩踏み出す。
「犬のくせに待てもできんのか」
王様はそう言って眉間にしわを寄せた。そこでようやく異様な緊張感がとけ、私は止めていた息を吸う。
「犬じゃないし、待てもできません。王様は通信機器を持たないから、何かあれば私がここに来るしかないじゃないですか」
「貴様と我とのあいだに何かなどあるか」
神を厭う男が、昼間から礼拝堂の真ん中で何をしていたというのか。椅子の背に腕を乗せ、偉そうに顎を上げながら王様はそんなことを言う。
「これ、忘れていったでしょう。大事なものじゃないんですか」
私が王様のカードケースを掲げて見せると、彼は立ち上がり、ようやくこちらに向き直った。だからと言って自分から歩み寄る男ではない。私は椅子の間を十字架へと進み、彼のいる場所まで足を向けた。神を否定した古代の王と、一神教の祭壇。見れば見るほどちぐはぐだが、現代の衣服に身を包んだこの男が中東の王に見えるかと聞かれれば、それもまた否である。
「ふむ。宝物庫に入れるに満たぬ物などはどれも大事と言えぬが、なければ確かに生活水準が下がる。褒めてやろう、雑種」
王様はそう言って私の手からカードケースを受け取った。中には私があげたICカードと、見たことのない色のクレジットカード、そして何に使うのかわからない他言語の紙切れが一枚入っていた。なんにせよ、人の家に置いていくものではない。
「……英雄王ともあろう男が、女の寝所に物を忘れるとは。どうやらよほどのお気に入りとみえる」
突如、祭壇から聞こえた声に私は驚いて顔を上げた。重厚な声色も手伝い、それは神託じみた響きを纏っていたが、声の主はもちろん神でなく神父だ。濃紺のカソックは昼だというのに影を集めるようにして沈んでいる。特別、光源が少ないというわけでもないのにこの教会は薄暗い。窓の向きが悪いのだろうか。
「物を忘れることと相手への好意って、関係あるでしょうか」
少しの間を置いたあとで、彼の言葉に疑問がわいた私はそう問いかけた。
「なに、縄張り意識の問題だ。二度と来ない場所にわざわざ匂いはつけまい」
「余計なことを言うな綺礼。この女や貴様のサーヴァントであるならまだしも、この我を畜生に例えるとは……日がな信仰に耽りすぎて脳髄に虫でも涌いたか」
王様は不快げにそう言って、言峰神父を睨みつける。
「たとえ原初の神を克服しようとも、この場において我が主への愚弄は謹んでもらおうか。ギルガメッシュ」
一方の神父は心外そうに目を閉じていた。根城を同じくするこの二人が、朗らかに笑い合っているところを私は見たことがない。それでいて付き合いは長いというのだから不思議なものだ。互いの陰険さがかえって気兼ねないのだろうか。
「これ、お裾分けです。実家からたくさん送られてきたので。特産なのでモノはいいですよ」
おかしな空気に耐え切れず、そう言ってビニール袋を差し出すと、王様はちらりと視線を移動させた。橙色の果実が袋の中で光っている。私の地元の柑橘で、贈呈用としても評判の良いの贅沢品だ。初夏が旬なので、ぜひ今食べてほしいと持ってきたのだ。
「言峰神父もよろしければどうぞ」
「有り難くいただこう。酸味は辛味とも相性がいい」
「辛味?」
「なに、近頃は時世に則り、私の行きつけの店も宅配サービスを始めてね。そろそろ昼食時だ。三人分頼んでもいいが」
「へえ、言峰神父の行きつけってどこなんですか?」
「……命が惜しくば興味を持つのはやめておけ、雑種。我は出かける、果実はとっておけよ綺礼」
王様はそう言い残し、普段よりいくらか早足で礼拝堂を後にする。言峰神父にまた今度と挨拶をして、私も慌ててそのあとに続いた。
「どうしたんですか王様。せっかくだから一緒に食べたらよかったのに」
門をくぐりながら尋ねれば、王様は珍しくため息をつきながら目を閉じていた。何か恐ろしいものを思い出しているような表情だ。彼に怖いものなどあるのだろうか。ただごとならない気配を感じ、私はまたもや息を飲む。
「貴様、地獄を煮詰めたような料理で内臓を痛めたいのか」
「地獄を……」
「何年共にいても、あれとは食の好みが合わん。中華は良いがあの店は駄目だ。いや、そも彼奴の注文の仕方に問題がある」
ぶつぶつと不満をこぼしながら歩く王様はやはりいつもより歩調が早く、私はついていくのに必死だった。
「共にといえば、クーフーリンさんはどうなんでしょう」
「あの狗は受肉しておらぬゆえ他人事だ。困れば霊体化してどこかへ行く。よって業腹にも、いつも我が被害にあう」
そんな会話をしながら、ほとんど小走りで教会からの坂道を下っていると、向かいの歩道に噂をすればの人物が現れる。彼はこちらに気づくと「よう」と口を動かし、大きな歩幅で道路を渡ってきた。
「珍しいな、嬢ちゃん。教会に来たのか」
「ちょっと野暮用で。でも言峰神父が中華を頼むということで、逃げてきました」
「げっ、そうなんだよ。最近あれが自宅でも食えるようになったっつうことで、オレらにとっちゃとんだ災難だ。匂いだけで鼻にしみるんだよな」
「さすがは狗だな」
「誰がイヌだ!」
しれっと暴言を吐く王様に、クーフーリンが言い返す。この二人の関係性についても、私はいまいち理解が及んでいない。こうしていがみ合っている印象が強いが、時にざっくばらんな男友達のように見えなくもない。
「今日はお仕事ないんですか?」
「オレだって毎日魚屋にいるわけじゃないからな。日銭稼ぎよ。暇つぶしにゃ良い」
ウルクの王もさることながら、ケルトの王子も大概だ。魚屋の店先で鰹の鮮度を説く光の神子は、納豆巻きを頬張るアーサー王と良い勝負である。
「お昼ご飯、クーフーリンさんも一緒にどうですか?」
私がそう尋ねると、彼は教会へ向けかけていた足をくるりと返し「ご一緒するかな」と言った。ギルガメッシュと一緒に出かけるのもどうかと思うが、今戻れば激辛中華の餌食になりかねない。そういった判断が彼の表情から窺えた。王様は意外にも異を唱えず、冬木の中心街へと戻るまでのあいだ、これといって口をきかなかった。彼は語りたければ一晩でも語るが、そうでないときには無口なくらいなのだ。機嫌の良し悪しとはまた別のようで、ツボに入れば突然笑い出したりもするので油断はできないが。
私たちは新しくできたらしいテラス付きのカフェへ入り、三者三様にメニューを見た。王様は迷うタイプではないため、これを買ってこいと一番上のプレートを指差して席に座ってしまった。一方の私は優柔不断のため、ああでもないこうでもないとセットメニューを眺めまわす。
「とりあえず並ぼうぜ。聞かれる頃には決まるだろ」
クーフーリンに促され、列の最後尾へと回り込む。休日の午後はこういった軽食が手軽なためか、店内は家族連れやカップルで賑わっていた。
「しかし嬢ちゃん、あれの相手は大変だろう」
不意にそうこぼしたクーフーリンを見上げれば、彼は面倒見の良さと物珍しさと、少しの悪戯心の混ざったような顔でこちらを見ていた。この男は背が高く体格もいいが、王様のような刺々しい威圧感はなく、現代の世の中にもさらりと溶け込むしなやかさがある。けれど瞳の奥にあるのはケルトの蛮勇、狩猟民族としての抜け目なさだ。
「相手というほど、相手にされてる気はしないけど。見てのとおり王様はセイバーに夢中だし」
「夢中っつうのかねあれは……」
たしかに一般的な恋愛感情や口説き文句といったものからはかけ離れているが、それでも惚れていることに違いはないだろう。セイバーを見ているときの王様の目は、他の誰を見るときとも違う。
「でもまあ、ふらっと家に来る野良猫と思えば可愛いもんですよ」
「……あれが可愛いとは随分なゲテモノ趣味だな」
クーフーリンは理解できないというように頬のあたりを引き攣らせた。神の血を引くサーヴァントをこうも引かせられるという点で、私の嗜癖もなかなかのものだと実感する。
「それに王様、絶対にセイバーと私を比べたりはしないし」
言いながら、私は改めて思い返す。彼はセイバーを愛で讃え、私のことをこき下ろすが、それはあくまで独立した評価だ。ときに彼はセイバーを軽んじるし、私の何気ない部分を認める。そしてそれらもやはり、彼にとっては独立した感情なのだ。
「私自身は、よく比べちゃうんだけどね」
王様が私と過ごすのならそれは誰かの代わりでなく、私と王様だけの関係性だとわかってはいても、その目の先に誰かがいれば見比べてしまうのが人のさがというものだ。
「オレも異性には苦労したが、お前も大概だな」
「生前のクーフーリンは、どんな恋をしたの?」
「それは教えられねえよ。オレの逸話を読み解くのは勝手だが、オレの真実はオレだけのものだ。添い遂げられなかった女へたむけられる物なんざ、記憶くらいだからな」
クーフーリンはそう言って何気なく笑った。凄いことを言っているのに、なんていうことのない軽やかさを感じるのが彼の彼たる所以だ。
「それは……贅沢だね」
この男の記憶を独り占めできるのなら、それは何よりも贅沢だろう。光の神子を愛し愛された女たちの魂を思い、私は場違いにも神妙な気持ちになった。「お決まりですか?」と問われた声が妙に遠く聞こえ、つい適当な返答をしてしまう。本当は生ハムのベーグルが食べたかった気がするが、気づけば小エビのサンドイッチを受け取っていた。
「ほらよ、これだろ」
王様の注文はどうやらクーフーリンがしてくれていたようで、ぼうっとしていた私が怒られることはなかった。席に戻り、もくもくとパンを頬張りながら私はつい、先ほどの話の続きを口にする。
「王様の生前の女性関係は……聞かないほうがよさそうですね」
「聞いたら躊躇なく語りそうだけどな」
「なに? 」
何の話だと興味を示した王様に、なんでもないと言いかけて止める。
「ひとかどの英雄ですから、皆さんいろいろな思い出があるんだろうなと思って」
曖昧に答えれば、案の定彼は悪辣な顔をした。
「抱いた女の数など忘れたが、愚かな女の記憶なら存分にある。その筆頭がイシュタルなる駄女神よ。あの女の失態や醜態とくれば幾晩語っても足りぬが……まあ語ったところで酒が不味くなるだけだから止すか」
今飲んでいるのは白ブドウジュースだが、王様はそう言って急に言葉を止めた。本当に気まぐれな男だ。私はなんだかむらむらと煮え切らない気持ちになって、問いかける。
「セイバーのことは?」
「は」
「王様は、セイバーのどこが好きなの?」
敬語を使うことも忘れ、サンドイッチをお茶で飲みくだしながら、私は王様をじっと見た。隣でクーフーリンが肘をつきオイオイとこちらを見ていたが、それを気にする余裕もない。
「貴様、被虐趣味があるのか?」
「じゅ、純粋に気になって。それに王様が思ってるような嫉妬みたいなもの、セイバーには抱いてない気がします」
自分でも自分の心情はよくわからないが、私は私の心を探るようにじっと遠くの空を見た。よく晴れていて、雲が高い。
「セイバーのこと、見てるとぎゅっと切なくなるの、私も同じだし。王様は一緒にするなって言ったけど、あの人が持つ魅力ってきっと誰にとっても──」
「……」
「まぶしい」
思ったままの言葉を発しすぎたかもしれない。とたんに顔が熱くなって、目頭がつんと痛む。
「何を泣くか……」
「泣いてません。白い雲が目にしみて」
とっさに言い訳をするもかえってポエムのようになってしまい、私はますます恥ずかしくなった。隣のクーフーリンは言わんこっちゃない、という顔で無言を貫いている。
「眩しい……か。その光を尊ぶか、憐れむかの違いよな」
かと思えば、当の王様は意外にも真摯に私の言葉を受け止めたようで、椅子の背に寄りかかり脚を組んだ。
「人の身で求むる崇高さなど、極めれば極めるほど憐れなもの。一生涯を終えればそのことに気付き、馬鹿らしくなるものであろうに──あの女の愚かさは、死後なお諦めきれず足掻き続けているところにある。愚かも過ぎれば愛でたくなるというもの。手中におさめ慰めるもよし、足蹴にして虐めるもよし」
その目の中に宿る凶悪な色を見て、私はそれが自分に向かないことにほっとしていた。都合良く手のひらを返すようだが、こんな感情を向けられて耐えられる自信などはない。私にあるのは王様への憧憬と、恋慕と、不思議なまでの愛着だ。それがどこからきているのかはわからない。ともにした食事や、空間や、ちょっとした生活の一コマがなぜ、これほどまで私の心に沁みるのか──。
「貴様はな……」
遠い目をする私の顔を見返して、王様も少しだけ瞳の色を薄くする。
「どの世界でも同じだ。能天気な頭で我をほだそうと目論む。その頑固さもここまでくれば英霊ものよ。いつかどこぞの女神に目をつけられるやもしれぬな」
「女神に? 目を?」
「気にするな。まあ、その器におかしなものが入った日には、我が手ずから叩き出してやる」
彼の言っていることはわからないし、きっと私がわかるべき次元のものではないのだと思う。けれどどこか別の世界線で王様と出会うことがあったとしても、私はあまり変わらないのだろうと、なんとなく思う。状況に合わせ心証を変えられるほど器用ではないのだ。
「人の器に女神が入るなんざ、ぞっとしねえな」
「ないとも限らぬ。世界とは時にそうした離れ技をやらかす」
もしも私に女神の力が与えられたら、そのときは王様と敵対するのだろうか。もしくは、共に世界のために戦うこともあるのだろうか。
私の知り得ない世界の事情に思いを馳せ、もう一度雲を見た。変わらず白く、夏の形をしている。唐突に甘いものが食べたくなって、私はデザートメニューに手を伸ばした。バニラアイスがいいだろうか。
2020.07.05