夜に棲む日日 2


 卵をどう食べるか。それにより人と成りがわかる。
 昔から様々な論争を生み出してきた卵嗜好問題は、人生における一つの命題であり哲学といえるだろう。
 私は仲良く並んでいる六つのヨード卵を見て、神妙に腕を組んだ。
「なにを朝から辛気臭い顔をしておるか」
「いや……この子たちをどうしてくれようかと思って」
 背後から覗き込んできた王様にそう言えば、彼も同じように腕を組み黙った。顔を見れば随分といかめしい表情をしている。王による裁定。それは彼が人の街を見下ろすときとさして変わりない。なんとなく居心地が悪くなっていたところに王様の声が響き、私はハッと顔を上げた。
「ゆで卵だ」
「ゆで卵ですか」
 下った裁定を意外に思い尋ねれば、彼はうむと頷いた。
「簡素だがそれでよい。三つ作れ。我が二つ食べる」
「わかりました」
 私は言われるうちから湯を沸かし、橙色の卵を鍋の中に三つ置く。そうしてタイマーはかけずにテレビをつけた。ざっくりだが、あの占いが終わるころには良い加減だろう。王様は私のこうした大雑把さに呆れるが、だからといって王様本人がキッチンタイマーを使っているところもまた見ない。
 私がテレビを観ながらぼんやりとしているあいだ、彼はフライパンに油を敷いてベーコンを焼いていた。王様はこんなときいつも「気が向いた。今日だけだ」と言うけれど、今日だけというのは嘘で王様の気は定期的に向く。
「おいしそう。親戚からもらった高級なやつです」
「貴様は肉を焼くのが下手だからな」
 油がはねるのが嫌なのだ。つい火加減をおさえてしまう私の調理に不満があるのか、王様はそう言ってこれ見よがしにバチバチとフライパンを鳴らしている。
 占いが終わると同時に流れたニュースのテロップに合わせ、卵を一つ引き上げる。私は半熟が好きだが王様は固茹でが好きだ。この辺りは暑い国育ちのなごりだろうか。
 昨日もらったトマトを添えて、フランスパンをオーブンで焼く。かりかりのベーコンを乗せて紅茶を淹れると、シンプルながら贅沢な朝食が仕上がった。王様が来た日にはこうしてさぼらずに支度をするので、ずぼらな私としてもありがたい。
「今日、いろいろと買い出しに行く予定なんですが、王様はここでごろごろしていますか?」
「貴様は我をなんだと思っている。我が貴様の家でごろごろしていたことがあるか」
「けっこうあると思いますが……」
 王様がこの家ですることといえば、寝るか食べるか、私に手を伸ばすがのいずれかだ。なんだか見事に三大欲求の解消に使われている気がするが、そこに対する不満はこれといってない。不利益を被っているかというとそんなことはないし、ただ一つ懸念するとすれば、私の心持ちの問題だ。
 割り切った関係をもてるほど私の心はドライでなく、すでにこの男を身内のように思ってしまっている。けれどきっと、それは間違いなのだろう。
「じゃあ、十時には出ますね」
 卵の黄身を紅茶でのみ下しながらそう言うと、王様は承諾のようにテレビを消した。水分を取らずに固茹での卵を二つ完食している。唾液が多いのかもしれない。私はなんだかおかしなことを思い返しそうになり、慌てて首を振った。
「何ゆえそこで赤面をする? 相変わらずおかしな女だ」
 気味悪げにこちらを見ながら、王様は早々に席を立ちバスルームへと入っていく。私は王様がシャワーを浴びている音をリビングから聞くのが好きだ。これはおかしな意味でなく、受肉を果たした彼もまた人のように汗をかき、湯を浴びるということがなんだか親しみ深く思えるからだ。
 そんなことを考えているうちに自分で告げた時刻が迫り、「三十秒で支度をしろ」と急かす王様に背を押され玄関を出た。目的地は冬木新都のショッピングモールだ。近場の商店街で済ませてもよかったのだが、今日は思いのほか涼しいため遠出をするのもいいと思ったのだ。
 バスを乗り継ぎ新都の中心地へと出る。気候がいいためか街は人で溢れており、私は少し心配になった。たとえ苛烈な主義を持っていようとも、そこらの人間と軽率に揉めごとを起こす人ではないが、良くも悪くも目立つこの男に絡む人間がいないとも限らない。そんな私の心配をよそに、王様は少しのあいだ私の買い物に付き合ったあと、いつの間にかふらふらとどこかへ行ってしまった。

 再び合流したのは大方の用が足りて、そろそろ昼食でも食べようかとフードコートへ寄ったときだった。同じことを思ったのか、王様も中央の案内板の前で仁王立ちをしている。加えてその手には、大きな猫のぬいぐるみが携えられていた。
「わ、どうしたんですかそれ」
「フン、暇つぶしに遊戯場に寄った際手に入れた戦利品よ。子供騙しの玩具であったが、雑種どもにはそれすら難しいらしい。他のものはそこらの子らにくれてやったわ」
「他にもとったんですね……」
 長身の成人男性が眉一つ動かさず、猫のぬいぐるみをセカンドバッグのように抱えている姿はそれなりに奇異である。
「でもかわいい。王様の髪の色に似てますね」
「我を畜生に例えるとは大した度胸だな。この間抜け面、どちらかといえば貴様であろうが」
 猫の頭を掴み上げ、無慈悲に握りつぶしながらそんなことを言う王様に怖気が走るが、私は気を取り直して案内板を見た。
「なんだかジャンクなものが食べたいですね」
「たまには良いが肥え太るなよ。貴様なかなかどうして動かん奴だからな」
「家が好きなんです」
 けれどたまにはこうして誰かと出歩くのもいいものだ。レタスとチキンのハンバーガーを頬張りながら、ポテトのサイズをもう少し小さくしたほうがよかったかな、なんて思っているうちにだんだんと日が傾いていく。王様は半分食べて飽きてしまったのか、結局しなしなになった王様の分のポテトまで、私がすべてたいらげた。
「歩いて帰りましょうか」
「我は付き合わんぞ」
 そんなことを話しながら正面エントランスをくぐろうとしたとき、見慣れた二人連れが入れ替わるように自動ドアを開けた。なんという偶然だろう。私は驚きと少しの不安に冷や汗をかきながら、反射的に横を見上げる。
「セイバーではないか」
 王様は隣にいる少年を無視してそう言うと、高揚感と嗜虐心のようなものを目の中に宿らせて笑った。青いワンピースに解かれた髪。いつもより少しだけお洒落をしたセイバーは表情を硬くしたあと、私の方に視線を移す。
「名前! 何をしているのですか」
「ちょっといろいろ買い出しに……二人はデート?」
 聞いたあとで余計な単語を出してしまったと後悔しながら、私は士郎くんにも挨拶をする。
「私たちも……買い物です。ここの百貨店は食品売り場が充実していると聞いたもので」
「セイバー、お中元用の焼き菓子詰めが好きなんだよな。そのために貯金してるくらいだし」
「シロウ、それは言わない約束です! ヨシダさん家の犬の散歩アルバイトで貯めたお金を、自分用のお中元に使おうなどということは……!」
「フン、そんなもの我がロットで送ってやるわ」
「あ、あなたからお中元を貰えば、今後も親交を深めるきっかけになってしまう。丁重にお断りします」
 目を閉じて首を振ったセイバーの態度は厳然としていたけれど、眉の端が少しだけ残念そうに下がっていた。確かにお中元用の高価な菓子折りはおいしいし、くれるというのなら貰いたいというのが本音なのかもしれない。
「ではこれでどうだ」
 王様はセイバーの頑なな態度を見て、今度は手にしていたぬいぐるみを差し出した。
「え!」
「え?」
 同時に驚いたセイバーと私の声がフロアに響く。なぜ私まで驚くのかと、自然と全員の視線が私へ向く。
「いや……」
 王様が手に入れたものを誰に渡そうと、それは彼の自由だ。けれど私はどことなく王様に似たこの黄色い猫を、私の部屋に置いてもらえるのではないかと密かに期待していたのだ。
「な、なんでもないです。セイバー、お中元は貰う理由がないかもしれないけど、このぬいぐるみは王様が暇つぶしにゲームセンターでとったものだから、貰っても後腐れないと思うよ」
「へえ、ギルガメッシュがゲーセンでとったのか」
「やりますね。かわいい猫さんを持て余しているというのなら、快く引き取りますが……」
 セイバーがこうしたぬいぐるみを好むことは私も知っている。もしかすると、王様は初めから彼女にあげるつもりでゲームセンターに寄ったのかもしれない。
 いつまでも店の入り口にたまるわけにもいかず、私たち三人は頃合いをみて挨拶をし、別れた。王様も例のごとく、求婚であるならまだしもまるで既婚後のような謎の言葉をセイバーに告げながら、意外とあっさりと店を出た。
 結局、ぬいぐるみはセイバーの手に渡った。嘆くほどのことではないのに、なぜだか想像以上に寂しくなった私は自分でも気落ちの理由がわからないまま、バス停を素通りする。
「なんだ、本当に歩いて帰るのか」
「はい」
 少し一人になりたかった。風の通る夕方の街を歩いて帰れば、気分も持ち直すかもしれない。そう思ったのに、王様は以前私があげたバス会社の記念ICカードをポケットから出しながら、うっすらとした声を出す。
「……望みがあるというのにはっきりと言わぬからだ。我に雑種の心を慮る趣味はないぞ。拗ねた女を慰める趣味もな」
 そんなことを言われても、出すぎたことを言えば調子にのるな、思い上がるな、と釘を刺すのが王様だ。それに私だって、彼の圧倒的なアプローチを前に中途半端なあがきを見せ、惨めな気持ちにはなりたくない。
「だって、言う資格ないので」
「くだらん。そう思うのなら一人で帰れ」
「だからそうするって言ってるじゃないですか!」
 どうして追い打ちをかけるのだろう。私は私の中で折り合いをつけるから、少しほうっておいてほしいだけなのに。ちょうどいいタイミングで到着したバスに乗り込むかと思いきや、王様が八つ当たりのように殺気のこもった目を運転手へ向けたため、バスは怯えたように再発進してしまった。申し訳ない気持ちで見送っていると、ふいに下方からの視線を感じ、私は首を傾げる。
「さっきの兄ちゃんだー、彼女とケンカしてる」
 こちらをじっと見上げていたのは、歳のころ七、八の少年だった。肩にかけた手提げカバンからは大きな犬のぬいぐるみが覗いている。子どもたちにあげたと言っていたが、そのうちの一人だろうか。
「小僧、教えてやるがこれは彼女などというものではない。卑屈根性の強い婢女だ」
「変なこと教えないでください。……ひとり? ずいぶん大荷物だけど、気をつけて帰ってね」
「大人ぶるでないわ。貴様も玩具をとられ泣いていた子どもであろうが」
「泣いてません! それにとられたとも思ってない」
 声を荒げながらも、私は本当にそうだろうか? と自問する。こんなのは王様の思うつぼかもしれないけれど、考えれば考えるほど、あそこで二人に会わなければこうして喧嘩をすることもなく、家までぬいぐるみを持って帰れたのではと思ってしまう。
「ね、これあげる」
「え……」
「さっきこの兄ちゃんにもらったやつ。二つあるから一つあげる」
 少年はそう言って、手提げの中を開いて見せる。どうりで大荷物なわけだ。顔をのぞかせていた犬とはべつにもう一つ、クマらしきぬいぐるみが下の方で押しつぶされている。
「この女は、そのような物はいらぬそうだ。帰れ」
「まって!」
 冷たい声で追い返そうとする王様の言葉を遮って、私は思わず声を上げた。この冷たさはおそらく、少年でなく私に向けられたものだ。
「……いる、いります。でも、いいの?」
「うん。ぬいぐるみとかべつにいらないけど、兄ちゃんが持ってけっていうからもらっただけだし」
 王様の前でけろりとそんなことを言う少年の怖いもの知らずにひやりとするが、考えてみればこの王は子どもの率直な発言に目くじらを立てたことはない。どちらかといえば、本音を言わず、自覚すらできず、悶々と言葉を詰まらせる私のような人間にこそ厳しいのだ。
「ありがとう。嬉しい」
 礼を告げ、手を振り少年と別れた私に、王様がどんな目を向けているかはわからない。なんとなく振り向きづらく、私は上目でちらりと王様の様子をうかがった。
「……貴様にそっくりではないか、そのみすぼらしい雑種」
 彼はそう言って笑うでも怒るでもなく歩きはじめる。さっきは猫と言っていたのに今度は犬だと言うのだから適当だ。私は追いかけて横に並び、ようやく大きく息を吸った。日の落ちかけた街の空気はひんやりとして気持ちがいい。
「王様、ありがとう」
「我に礼を言うな」
「本当は欲しかったんです。すごく」
「阿呆め。貴様、死ぬ直前に死ぬことを悔やむ類の人種だぞ」
「嫌なこと言わないでください」
 猫もかわいかったけれど、犬もかわいい。私はセイバーと違いかわいいものが特別好きというわけではないのだから、要するにこの嬉しさは別のところにあるのだ。王様はこんなことを私に自覚させてどうするつもりだろうか。なんだか胸が苦しくなったが、決して惨めな気持ちではなかった。欲望を自覚することは、惨めであるとは限らないのだ。
 私は柔らかなぬいぐるみを抱きながら、歩道の砂利を踏みしめる。晩御飯は何にしよう。王様もうちで食べるのだろうか。街の明かりがちらほらと灯りはじめている。夜がくれば夕飯を食べ、そうしてまた朝になる。当たり前だが不思議なことだ。このおかしな男の隣ではとくに。

2020.06.28

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