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 理想と現実の話だ。

 現実主義者、と思われることが多い。実際に目に見えた無茶はしないし、むしろ目の前の現実を受け入れそこからいかにして最善の解決策を導き出すか、を、日々考えている。べつに大それたことじゃない。試合中のセッターに求められる能力はまさにそれだ。セッターじゃなくたって、真剣にスポーツにとりくむ者なら誰しも志すことだろう。昨日だって、久しぶりの練習試合で試されたのはやはりそんな能力だった。
 午前中からクロスがうまく決まらずフラストをためていた木兎さんは、午後一の試合で二度のアウト判定ののち盛大にアンテナに当て、完全に腐った。午前中めずらしく粘っていたことを褒める間もなく、反動とばかりにテンションを落とす我が主将の背中は小さい。自慢のTシャツの文字もかすんでしまうほどだ。日によって波があるとはいえ、公式戦前の最後の練習試合である。おかしな泥はつけたくなかった。

「木兎さん!」

 クロスが不調なときにストレートに切り替えることはよくある。けれどそんなときこそが最大の囮となるのだ。俺は数度他のスパイカーを使ったあとで再び木兎さんに声をかけ、ストレートの視線をフェイントで送ってから高めのセットアップを上げた。リードブロックがレフトに流れ、センターに隙ができる。手のひらに完璧にボールがミートした音がして、ブロッカーが地面に降り立つより先に床へスパイクが突き刺さる。

「き……もちい〜〜! ヘイヘーイ!!」

 エーススパイカーは見事に腕を振りぬいて、着地した軸足でそのままくるりと振り向いた。

「あかあし! 今のめちゃくちゃ気持ち良かった!」
「決まりましたねクロス」
「俺も助走まではストレート打つつもりだったのに! やっぱ赤葦は凄いな! 俺くらい凄い!」

 自己評価に照れがない木兎さんがそう言うのだから、こちらも喜ぶしかない。実際に彼は凄いし、彼がいるから俺も未知数の力を発揮できる。一人一人が実力以上のことをできるわけではない。けれど互いが作用し合えば、可能性はいくらだって増すのだ。
 ──そう、例えば酸素濃度が急激に落ちているんじゃないかと思うほど、息苦しいこの部屋でだって。

「除湿じゃなくて、冷房にしようか」

 彼女はそう言うと、リモコンを掲げ少しだけ上を見た。顎があがり、うっすらと唇がゆるむ。短い袖のシャツから伸びた白い二の腕が、俺の視界をさえぎった。ふとした彼女の仕草がいろっぽく見えるのは邪な気持ちがあるからで、息苦しいのだってべつに部屋が悪いわけじゃない。俺が勝手に欲情しているだけだ。

「テスト勉強、すっかり恒例になったね」
「そうですね。先輩理系だから助かります」
「赤葦くんだって数学苦手じゃないでしょ」
「公式戦の前後にやった単元、まるっと抜けてるんですよ。集中できなくて」

 追い立てるように告白まがいの言葉を吐き、なし崩し的に付き合いはじめたのが三ヶ月前だ。あっという間に定期テストの期間が巡り、俺たちはまた一つの部屋で教科書を突き合わせていた。

 俺は書きかけの公式を途中でとめ、彼女の顔を見た。問題に行き詰まったと思ったのか、先輩はノートを覗きこみ真剣な表情をする。目の前で前髪が揺れ、なにか甘い匂いがした。シャンプーのようだけれどそれだけじゃない。彼女自身から発せられるしめった匂いだ。

「あってるよ、途中式。一個前のと解き方おなじ」
「はい」
「あ、でも自然数にならないかも」
「そうですね」
「だから先に約分して……聞いてる? 赤葦くん」
「聞いてません」

 これといった抑揚もなくそう言った俺に、先輩は顔をあげ訝しげな顔をする。そして俺の目の中になにか不穏なものを感じとったのか、少しだけ肩をこわばらせた。

「なんか、えっと、もしかして」

 冷房をつけているのに、暑くてしょうがない。そんな自分に呆れている自分もいる。コートを常に上から眺めるつもりで把握するように、客観的で冷静な自分が頭上からため息をつくのだ。

「……すみません。正直、邪念にまみれてます」
「え?」
「自分でもがっついてるとは思うけど」
「……」
「今日のうちに抱きたくて名前さんのこと」

 ここまではっきり言う必要があっただろうかと自分でも思うが、何か望むことがあるときは、ストレートに口に出すことが結局一番の近道なのだと知っている。俺の唐突すぎる発言に目を丸くした彼女は、無意識か、気を落ちつけようと思ったのか、麦茶の入ったグラスをせわしなく指でなでた。表面の水滴がぽろりと垂れて彼女の指先をぬらす。ピンク色の爪も、柔らかそうな関節も、何もかもが美味しそうだ。俺は茶をこぼさないように注意しながら彼女の手をグラスからはがし、握る。そして彼女にはじめて触れたときのように、床の上にやんわりと押しつけた。乱暴にならないよう、けれど逃げられないよう。

「あ、あかあしくん」

 彼女の声はふやけていて、喉の奥で消えてしまいそうにか細い。二人だけのこの空間で、選べる選択肢はそう多くない。目の前の現実から導ける最善の策。それはつまり理想と同じだ。俺は実のところ、現実主義者などではない。

「駄目ですか」
「だ……」

 先輩は少し逡巡した後、大きく息を吸い、気合いを入れるように眉を吊り上げた。それがかわいくておもわず笑いそうになるが堪える。怒っているのではない、彼女は緊張しているのだ。笑ったらかわいそうだ。

「だめじゃないよ。でも、ゆっくりして」
「わかった」

 ぺたりと床に座る彼女を、自分の方へむかせ丁寧にキスをする。こんな向き合うような形でゆっくりと手順をたどることは初めてで、こちらも緊張してしまう。しばらく体をなでたあと腰を引くと、先輩はくたりとうなだれたため、そのまま床へ押し倒した。凶暴な気持ちを必死で押し殺し、上から見つめる。

「力抜いて」
「ん」
「痛かったら言うこと」

 いい? と伺うよう目を覗くと、彼女は小さく頷いた。子どものようになってしまった名前さんを慈しみたいと思ったからか、いつの間にか敬語をつかうことを忘れていた。一歳しか違わないが、部活の縦社会で生きてきた俺にとっては侵し難い高三の女性だ。それを今組み敷いている。
 そう思ったところで、興奮と同時に見て見ぬふりをしてきた焦燥のようなものがわくのを感じた。俺の前に、べつの誰かが彼女に触れたことくらいは知っている。別れに付け入るようにして手に入れたのは自分だ。けれどいざこうして細い肩に触れてみると、その事実が胸に迫り腹の底が煮えたぎる。クラスも名前も知っているその男を、次に校内で見かけたとき俺は正気でいられるだろうか。

「かお、怖い」
「元からです」
「……そんなことないよ?」
「……どうも」

 彼女を慈しむ余裕がない。微妙なフォローをされていることを気恥ずかしく思いながら、俺はもう一度歳下の生意気な男に戻り、彼女を食い尽くすため首筋に噛みついた。現実的に考えて、彼女をすっかり俺のものにすることなんてきっと一生できない。けれど少しずつ、着実にやっていくしかないのだ。飽きたり、諦めたりはたぶんしないだろう。こう見えて俺は理想主義者なのだ。

2017.07.12

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