2



 西口の裏通りなど普段は足を踏み入れないが、そこに何があるのかは知っている。
 ためらうことなく華美なゲートをくぐろうとした折原君を一度呼び止め、無言の訴えをした。振り向いた彼も言葉を発することなく、首を傾けたままじっとプレッシャーをかけてくる。「見られている」という事実は私の挙動を固くする一方で、拒否という選択肢をことごとく奪っていた。ここで止めれば今日一日の茶番は無駄になる。彼は最後まで私の依頼を完遂したのだから、私だってそうするべきだろう。
 そう思った結果、じらすふりをする女のような動作で、私はゆっくりとその敷居をまたいでしまった。思考を鈍らせるアロマの香りとヒーリングメロディにつつまれて、現実感がますます遠のいていく。急かすよう促され部屋へ入る様は、さながら興奮しきったカップルそのものだろう。
 私は身を硬くして折原君を睨みつけたが、ドアを閉めたとたん私の手を離し、人好きする笑みを浮かべた彼に言い知れぬ脱力感を覚えた。くらくらと目がくらむ。頭が重いのはウィッグのしめつけのせいだと思い、とっぱらって首を振った。癖のついてしまった髪の毛を整えていると、後ろからえりあしを掬われぞわりと背筋が粟立つ。

「やっぱりこっちの方がいいね、化粧も落としてきてよ」

 口説き文句をよく心得ていると思う。もう誰の目もないのに、彼はテンションを変えずにそんなことを言った。逃げるように風呂場へかけこんで、お湯で顔を洗う。どうにかして浮ついた心を醒ましたいという思いもあった。しかしいつもの自分に戻っても、柔軟剤のきいたホテルのタオルや、きらきらとしたアメニティや、ムードを演出する観葉植物なんかがこぞって私の正気を奪っていく。ここはラブホテルのバスルームで、扉の向こうには同級生であり一夜の過ちを犯してしまった、性悪男が待っている。なんていう状況だ。タオルを握りしめながらシャワーを浴びた方がいいのだろうかと血迷ったところで、そんな必要は一欠片もないと気付きドアを開ける。

「シャワーいいの?」
「……べつに、だって」

 はっきり否定や肯定をするとかえっておかしな空気になりそうだったため、曖昧に濁しながらそそくさとソファの端へ腰かけた。「ふーん」と適当な相槌をうちながら、折原君は追加料金のスパークリングをためらいなく開けている。二人分注がれたそれは寝室のやわらかな間接照明を受け、ぱちぱちと光っている。彼はなんてことない様子でテレビを付け、グラスを傾けながら暇をつぶし始めた。入るところを見られている以上、すぐに出るわけにはいかない。私は私で手持ち無沙汰だったため、ちびちびとワインに口をつけ時間を潰す。折原君は拍子抜けするほどリラックスをして、自室のようにくつろいでいる。そういえば、彼は私の実家でもこんな調子だった。
 そうして過ごすこと数十分。一方の私はまったくと言っていいほど気が抜けなかった。おそらくあと数時間、この空間で過ごすのだとして、このままなにごともなく漫画喫茶のようにだらだらして解散、なんていうことには絶対にならないだろうという確信があった。案の定、彼は一本分のハーフボトルが底を尽きるころ、ごく自然な動きで私の毛先をいじり「あとついちゃったね」と言った。

「……うん」
「やっぱりシャワー浴びたら?」
「いい」

 キスをしたときから、鼓動は速まる一方だ。気付かれまいとテレビの画面に集中するが、えりあしを梳く指が耳に触れた拍子に、うっかり肩を揺らしてしまった。耳朶にそうよう何度も横髪をかきわけられ、画面を見続けることが難しくなる。相手は猫をめでるように指先で遊んでいるだけなのに、こうも反応してしまうのが悔しくて仕方ない。
 どうしようもなくなって立ち上がると、彼は「はは」と他人事のように笑った。

「そんな意識する? もう一度してるのに」
「あれは……私の中では、なかったことに」
「ならないよ」

 同じように立ち上がった折原君は、甘いとばかりに私の腰をつかまえて、もう一度耳のふちを撫でた。今度は耐えきれず、小さく声を上げてしまう。

「なんで知ってると思う?」
「なに、が」
「耳弱いこと。一度寝たからだ。思い出しなよ」

 嫌になるほど清潔な声で、彼は不潔なことを言う。まっすぐに見据えてくる彼の目を見つめ返せるわけもなく、目を閉じて俯いた。折原君は多少強引な手つきで私の腕を掴み、ベッドサイドで肩を押した。高級なマットが深く沈み溺れてしまいそうだ。彼が着させた服を、彼の手がよどみなく脱がしていく。自分はベルトすらずらさないままで、私の体から全てをとりさると、満足げに息を吐く。本当に性が悪い。私の体にでなく状況に興奮している顔だ。性欲でなく、支配欲と征服欲。息ひとつ乱さずに高揚し、見下しているのだ。

「デートする、だけって」
「これもデートの内だろ」
「もう誰も見てない」
「……せっかくだからね」

 そんなついで感覚で人の貞操を奪わないでほしい。二度めをしてしまったらいよいよ戻れなくなってしまう。けれどそれが彼の企みなのかもしれない。一つの目的で満足するような男ではない。こうして人を絡めとって、次への布石としていくのだ。



「……折原君って、セックスとかしなくても平気な人なんだと思ってた」
「特別セックスに興味があるわけじゃないけど」

 けっきょく彼が服をすべて脱いだのは、行為が終わりシャワーをあびた後だった。ホテルのガウンは彼の綺麗な体をよけいにいかがわしく見せている。畳の上で見た浴衣姿を思い出し、彼との関係がぐるぐると頭の中でうずを巻いた。同伴の方がまだ健全である。

「体のつながりだけでどこまで人を絆せるのかには、興味があるよ。それにべつに嫌いじゃない」

 いまだに羽布団のすきまから抜け出せない私は、すっきりした様子でソファーに座る彼を睨む気にもなれず、とろとろと滲む視界に気をまかせていた。骨抜きなんていう言い方はどうかと思うが、相性がいいことは否めない。体にうまく力が入らない。

「人間を愛するのなら性愛だって理解してしかりだ」
「それなら私以外にだって、適任はいるでしょ」
「適任、なんて面白くないじゃないか。変化がなければ関係する意味がない」
「変化?」
「だって君はもう、俺を他人と思えないだろ?」
「……」
「例えば、俺が誰かに傷つけられそうになったとき、君はそれを見過ごせないはずだ」

 確かにそうかもしれない。どんなに素知らぬ顔をしようとしたって、熱や匂いや、湿った息遣いを知ってしまった彼のことをもう他人とは思えない。体に騙された心が、彼にぴったりと寄り添ってしまうのだ。

「愛着ってやつだよ。愛情とは違う、無意識にして無責任なつながりだ」

 椅子にかかったワンピースが、自分のものでもないのに懐かしく思えた。早く服を着たい。彼と適切な距離を保ちたい。急に怖くなってベッドから起き上がろうとした私の体を、折原君が押し返し、無駄とばかりにまた沈める。再び近づいた距離に、さきほどまでの心地よさを思い出してしまう。こんなのは愛の押し売りだ。これ以上は受けとれない。受けとってはいけない。

「なにごとも、無責任な方が気持ちがいい」

 けれどそもそも、最初に利用したのは私の方だ。きっと折原君が飽きるまで、私は愛を押し付けられる。そして彼がどこかへ行ってしまうころ、捨てられない愛着を抱えこんで途方にくれるのだろう。それはこのうえなく無責任な話だ。


2017.04.09

- ナノ -