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 彼は何を言おうとしたのだろう。あの時私は何を聞かれたのだろう。

 月の半ばに定期テストがあったため、時間は驚くほど速く過ぎた。徹がわからないと言っていた複素数平面の公式を書きつらねながらも、頭にあるのは月末のことだ。顔は写らないと言っていたものの、その場にいる人には見られるわけだから肌荒れなどは防ぎたい。肩は出すのだろうか。背中は? 靴は? 直前になるまで頭に浮かぶのは格好のことばっかりだったのに、いざ当日になってみると徹の胸中が気になってしょうがなかった。「お前はいいの?」と聞いたその意味はなんだったのか。迎えに来てくれたおじさんの車に乗り一時間、だんだんと山深くなる景色を眺めながら考える。当の徹は午前中に部活の指導が入っているらしく現地集合だ。
 思えば付き合いが長いわりに、込み入った話をしたことがない。人間関係の相談をしたことがなければ、付き合っている人の話などもしないため、彼が彼女と別れたことを知るのはいつも別の彼女ができた後だった。

「もう着くよ」

 運転席から声がして窓をのぞくと、葉の落ちた樹木のあいだに瀟洒な建物が見えた。そう大きくはないけれどこだわりの感じられるコテージで、白い木造りの外壁は西洋の時計台のようだ。ここで結婚式をあげることになったら、それはロマンチックだろうなと他人事のように思う。
 先に着いていた撮影業者の人たちへの挨拶を済ませ、控え室へ入ると、そこには絵に描いたようなうつくしいドレスが鎮座していた。ゆるく広がるスカートの裾は大げさすぎず上品で、けれどよく見れば繊細な刺繍が縫いこまれている。ウェディングドレスの白というのは、言葉には言い表せない敬虔さがある。儀式の装束なのだからあたりまえかもしれない。

「綺麗ですね……」
「いいでしょ? 今スタイリストさん呼ぶから待っててね。女性は時間かかるから、もう始めちゃおう」

 プロに頼んでいる撮影なのだから当然だけれど、事態は私が思っていたよりもはるかに大事で急に身が縮んでくる。ドレスを着ないことにはメイクもヘアセットもできないということで、言われるがまま着せ替え人形のように布々に包まれていく。ドレスのトップスを肩まで引き上げたところで全身鏡をかざされ、あっという間に結婚の数時間前という自分が出来上がってしまった。そんな事実はないのだからコスプレのようなものだけれど、なぜだか気持ちが盛り上がってくるのだから不思議なものだ。来てもいない両親に感謝の言葉をささげたくなる。今日私は旅立ちます。大好きなあの人と、永遠の愛を誓ってきます。そう思ったところで、なんだか誤魔化せないほど胸が痛み、私は思わずしゃがみ込みそうになった。「きつかったですか?」と背中の編上げ紐を結んでいるお姉さんに謝られ、とっさに首を振る。

「大丈夫です」
「撮影だけだからあっという間ですよ。本当のお式となったら、時間は長いし意外に動き回るのでもっときつめに結ぶんです。けど今日はこれくらいでいいですね」

 フリなのだからいいだろうと思っていたけれど、フリだからこそ胸にくる何かがある。髪の毛を編まれ、化粧を施して、花嫁に近づけば近づくほどその何かが現実から離れていく。心の置きどころが分からず、私はただぼんやりと鏡を見ていた。これじゃあ本当に人形だ。

「チャペルのセットが整ったら呼びますね。靴履いちゃいましょう」

 徹は背が高いので、ヒールを高くしても問題ないそうだ。その方がドレスが綺麗に見えるんですよ、とお姉さんは嬉しそうに教えてくれる。小さな椅子に座りながらスカートの裾をもてあましていると、廊下の向こうから聞き慣れた声が聞こえてきた。スーツを着て髪を上げるだけの彼はもうとっくに準備ができているようだ。無心になろうとつとめて、十五分ほどが経ったころ「オッケーです」という声とともに控え室のドアが開いた。そこにはまだ徹はおらず、スタッフらしき数名の女性が手を貸してくれる。ロビーを横切り、正面の重厚なドアの前でドキドキと立ち止まっていると、こちらですよと誘導され恥ずかしくなった。すっかりバージンロードを歩く気がしていたけれど、ただの撮影なのだからどこから入ったっていいのだ。脇の入り口までおずおずと歩くが一歩一歩が自分の体じゃないみたいに重く、気を抜くと転んでしまいそうだ。

「ベールを下ろすので気をつけてくださいね」

 そう言われるとともにドアが開き、式場のまぶしい光が外へ漏れる。足元を見ながらゆっくりと進んでいると「おお、とっても素敵だね」というおじさんの声が聞こえてきた。壇上に徹が立っているのが見える。白ではなく淡いシルバーのタキシードを着ていた。ベール越しではその表情までは見えず、私は密かにほっとした。

「ありがとうございます。お待たせしました」
「ドレスぴったりだね、着丈聞いといてよかった」
「はい。歩きづらくて、びっくり」

 なんだか猛烈に恥ずかしくなってきて、私はうろうろと視線を彷徨わせた。スタッフがとっさに手をとってくれ、すがるように強く握る。おじさんが綺麗だね、と徹に同意を求めているのが聞こえ、消えてしまいたくなる。彼は感情の読めない声で「すごいですね」とだけ言った。
 檀の前へ来たところで徹が私に手を差し出したため、一瞬ためらいつつも握り返す。

「大丈夫?」
「なんとか。ドレスってこんなに重いんだね」
「みたいだね。普段より背ぇない?」
「うん。徹とのバランス考えて、ヒール履いてるの」

 話してしまえば自然だけれど、顔を見ることができない。「新郎がベールを上げるところを、新婦の後ろから撮りますよ」カメラマンが一生懸命説明してくれているけれど、あまりよく耳に入らない。

「そんなに緊張しなくても、こんなのただの真似ごとだよ」
「わかってる」

 躊躇っていたのは徹の方なのに、いざこうして向き合えば彼はとても冷静だった。一方の私はなぜだか泣きそうなほど感極まっている。やめておけばよかった。彼がどうしてあんなにも渋ったのか、バカな私はようやく気付いた。徹の手がこちらへ伸びてきたので、あわてて涙をひっこめる。
 視界がクリアになって眩しいほどだ。ゆっくりと顔を上げると、徹はあの時ソファーの上でしたみたいに、薄く目を細め私を見ていた。見定めるような抜け目ない視線だ。けれどどこかいつもとは違う。こんな時の徹はひやりと温度を感じさせないのに、今日は指先から伝わるほどの熱を感じる。目の端が少しだけ切なげに下がっている。私は何も言えず、シャッターのおりる軽快な音を聞いているしかなかった。
 必死に感情をおさえこんでいるうちに撮影は終わり、せっかくだからと言われるがまま身内の携帯撮影に写り、なんやかんやと用を済ませて、気付けば控え室に座っていた。小道具のブーケを眺めながら、あっという間の半日だと思う。実際の式にはこの何十倍もの準備がいるのだろうから、ドレスを脱ぐころには燃え尽きているかもしれない。髪をほどき、化粧を落とし、さきほどとは逆の順番で日常へ戻っていく。ただの女子高生であり、ただの幼馴染みである名字名前だ。着てきた服に着替えるころにはすっかり高揚感もおちついて、ただしんみりとした疲労だけが残った。

「お疲れ」

 廊下で会った徹が気の抜けた笑顔で言う。

「お疲れさま。ちゃんと撮れてるかな」
「大丈夫でしょ。プロが撮ったんだし」

 徹は清々したという身振りで伸びをして、うあ〜と家で出すような声をあげた。すっかりいつもの彼だ。私もちゃんと普段通りに見えているだろうか。けっきょく撮影に関する感想などは彼の口から出ず、そのまま荷物をまとめおじさんの車へ乗り込んだ。徹は車内で何度か「疲れた」「お腹すいた」と漏らしたけれど、高速を下りるころにはぐーぐーと寝てしまった。寝たふりをしているようには見えなかったので本当にリラックスしていたのだと思う。数時間前のことは本当に現実だったのだろうかと混乱する。帰りがけに「どこかでご飯食べていこうか」とおじさんに誘われたけれど、私は家の用事を理由にして断ってしまった。

「送ってく」

 徹のその一言がとても意外で、私はとっさに断ることができなかった。車から降りて、ほんの数週間ぶりの道を二人で歩く。あの時と違い徹はみかん箱の代わりに私の荷物を持ってくれている。「数学のテストは散々だった」とか「後輩にもっと部活に顔出すよう言われた」とかたわいのない話題を振ってくる姿はやはりいつもと変わらない。夢みたいだ。幸せな夢から醒めた朝のような、こんな物哀しい気持ちで明日から生きていかなければいけないと思うと気が重い。家の手前で荷物を渡されたけれど、どうしても受け取る気になれず立ち止まる。

「名前?」
「徹、今日たのしかった?」
「べつに楽しくはないけど、これであのバイト代なら割はいいでしょ」
「そうだね」

 同意しながら手をさし出す。けれど今度は、徹がひょいと荷物を遠ざけた。

「名前、そういうのやめて」
「そういうのって?」
「やりたいって言ったのはお前なんだから、変なテンションになるなって言ってんの」
「……」
「聞いたじゃん。ちゃんと」
「……うん。でもあの時、何を聞かれたのかよくわからなかったんだ」

 正直な気持ちを言うと、彼は少しだけ唇をとがらせて横を向いた。けれどまたすぐにシリアスな顔に戻り、ため息をつく。

「徹、あの時私、何を聞かれたの?」
「この期に及んで言わせる?」
「私いっつも、徹が何考えてるのかわからないんだよ」
「俺の気持ちなんてわかる必要ないよ。お前がわかるべきはお前の気持ちでしょ」
「……」
「だってお前、俺のこと好きじゃん」

 隠す隠さない以前に、彼が私の気持ちを気にすることなんてないと思っていたので、ばれているとも思わなかった。そんなに態度に出てしまっていたのだろうか。それとも彼が鋭いのか。ためらいもせずそんなことを言えるなんて相当な自信家か、観察眼の鬼だ。ここですぐさまバカじゃないのと否定できれば良かったのかもしれない。けれどもちろんそんなことはできず、無言の肯定をしてしまう。

「俺がなんで嫌だったかわかる? お前のこと、女として見るか見ないかっていうそんな微妙なラインすら乗り越えられてないのにさ……」

 徹は私の荷物をぽんぽんと膝ではずませながら、静かな声で言った。

「いきなり結婚なんていうゴールインのイメージ植え付けられて、俺だって大混乱なんだよ。変な気持ちになる予感はしてた。"それ"を望まないわけにはいかなくなる。めちゃくちゃ面倒臭いことになる。そんで俺は彼女に振られる」
「それはべつに、」
「関係ないわけなくない? こんな気持ちで他の子とやってけると思う?」

 遠慮のない目で睨まれて、私は自分のしたことの罪深さを知った。けれどここまできたらもう誤魔化せない。徹の恋愛事情を探ったりだとか、彼女のいない期間を狙ったりだとか、そういうことを避けてきたのは数いるうちの一人になりたくなかったからだ。

「今日やってみてわかったけど、結婚するなら徹がいい」
「……お前ってほんとずるい」

 付き合えないならそれでいい。けれど結婚は私にちょうだい。そんなことを思いながら自分の強欲さに驚いていた。この真っ白な嘘が二人をどこまで惑わすのか。それは誰にもわからないけれど、このさき病める時も健やかなる時も、彼がそこにいれば幸せだなんていうことは神様に誓うまでもない。

ことしもよろしくお願いします
2017.1.3

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